イエスの型破り、型破りのイエス

   六甲教会、説教箇条書き、年間4主日、09−02−01

 マルコ福音書(1,21−28)には癒しの話しが述べられています。登場人物は「悪霊に取り付かれた」と言われた人です。イエスは彼を癒し、その病から解き放つのです。マルコの書き方は一見して奇跡物語や悪魔払いものがたりのように見えます。聖書の勉強会で取り上げるとき、はじめてその話しを聞いた者は「奇跡なんかありうるのか」、「悪魔払いなんかありうるのか」とひっかかって、奇跡も悪魔も信じられないといっても無理もないでしょう。しかし、この話しの背後にどの史実があったかと言うと、それは奇跡でも悪魔払いでもなくてもかまいません。いや、はっきり言って、奇跡を信じる必要もないし、悪魔を信じる必要ももちろんないのです。

 現代なら、発作的に痙攣をおこし、手足をもがき、口から泡を吹いたりするような病気は、癲癇(epilepsy)と診断するでしょうが、当時、原因が分からない病気のことを「穢れた霊にとりつかれた」のだと人々は解釈していました。そしてその人々は差別扱いされていました。いろいろな精神病も、皮膚病も、生まれつきの身体障害も同じく差別あつかいされて、村の外へ追い出されることもありました。

 どのようにイエスがこの人々を癒したのでしょうか。安心させて、自身を与えて平安を取り戻させたでしょうか。わかりません。とにかく、この話しは、イエスがその人を大切にし、癒しを必要としている人を大事にし、弱い立場にいるその人を解き放つということが言いたいのです。

 福音書のほかのところでは、人を癒すイエスが言います、「あなたの信仰はあなたを救った」。つまり、イエスから、魔法使いみたいに、魔術的な力が出て人を癒すのではありません。人を癒す力は、その人自身のうちにあるのです。自分のうちにその力があると、人々には信じきれないから癒されないのです。
さらに、イエスは人を癒すのはその人を慈しむからです。自分の名誉のためではなく、お金をもうけるためではなく、自分が神だと信じさせるためではないのです。

 ある日のことイエスは敵対者から言われた。「空の上に何か不思議な業を行ってみなさい、幻が現れるとか、何か常識では起こるとは考えられないような不思議なわざを行って見なさい。そうすれば私たちは信じます」。しかしイエスは断りました。十字架につけられたときまた、敵対者から言われました。「奇跡を行って十字架から降りみよ。そうやってみせてください」。しかしイエスは十字架から降りませんでした。

 では、マルコ福音書のこの癒し物語の趣旨に耳を傾けましょう。
 
 イエスは弱い立場の病人を癒します。土曜日で、安息日でした。人を縛り付ける宗教指導者たちから見れば、安息日に癒しを行ってはいけないのですが、人を解き放つ宗教を教えるイエスから見れば、安息日よりも人が大切です。だから人々がおどろいて言った「このイエスはうちの宗教指導者たちとは違う。威厳があり、権威があり、力があり、型破りです」。マルコ福音書では特に強調されるこのイエスの型破りです。

 このイエスの生き方と行い方によって私たちはどのように語りかけられているのでしょうか。

 具体的に私たちは現代の社会の病理に対して何ができるのでしょうか。現代なら癲癇のことを悪霊と間違えないでしょう。精神病などには薬やカウンセリングなどを進められるでしょう。しかし、現代社会の圧力によって人々が病気させられることは少なくないのです。たとえば、うつ病から過労死まで、いろいろな実例が上げられます。では、具体的に私たち、教会では、どのように人が癒されるように手助けをすることができるでしょうか。