教皇フランシスコ『愛の喜び』Amoris laetitia,4章結婚と家族内の愛.116-119

希望

116.すべてを希望する(panta elpizei、,パンタ・エルピゼイ)とは未来に対して絶望しないことです。相手にはいつも変わる可能性があると知っている者はあくまでも相手が成熟し、おもいがけないうつくしさが芽生え、隠れていたよい種が成長するのを希望します。もちろんこの世ではすべてがかわることがなかなかできないとわかりますが、いろいろなことは思う通りにはいかないにしても、曲がった道でまっすぐな歩みを導く神を信頼してこの世で相手が乗り越えることができなかった悪から良いことが生まれるようにするかもしれないとでも思うことができるでしょう。


117.そこまで希望を持つと、この世を超える希望に頼るということになります。つまり死のかなたに希望することです。さまざまな弱さをもっている人は、天において充実した生を生きることに呼びかけられています。そのときキリストの復活の栄光に変容させられるだろうその人の弱さや闇や病理が存在しなくなります。そのときその人の真の美しさと善が輝くでしょう。このことを思えば、今この世の苦しみの中でその人のことを希望の光に照らしてみることができ、今、見えないのに、天の国で見えるようになるだろうその人のうつくしさに希望をかけることができましょう。

118.すべて耐え忍ぶ。Panta hypomonéi (パンタ・ウポモネイ)は思う通りにはいかないすべての不愉快なことを積極的に受け止めることができるということです。周りの環境は敵対であっても、しっかりとがんばります。この耐え忍び方は、ただ単にじゃまになるものに対してがまんするだけではありません。より積極的なことです。たえず抵抗しなければならないところに抵抗することでもあります。どんな挑戦課題とも取り組むことです。愛することは、要するに、いろいろなことが愛さないように招くにもかかわらず、それでもなお愛することです。すべての否定的なことに直面しても、愛は頑固に善を選ぶことを止めないのです。Martin Luther Kingの言葉をおもいだします。「一番あなたを憎んでいる人や国は何かの良いことを心の中に持っています。いろいろなことがあるにも拘わらずその人を愛することができます“。

119.家族の生活の中でこの愛の力を育てたいものです。その力をもって家族生活がおびやかされている悪とたたかうことができましょう。愛は恨みに負けません。愛は人を軽蔑せず、憎まず、人から犠牲の償いをもとめません。キリスト者の家族内の愛は何と言ってもいろいろなことがあるにも関わらずということがあっての愛です。私は感心した素晴らしい模範を見たことがあります。ある人は自分を虐待していた配偶者から別れざるをえなかったにも拘わらず、のちに相手が病気や困難や苦しみに合った時、元配偶者だった方に対する愛徳をもって良いことをすることができ、世話までしたことがあります。その時自分の感情を超えて夫婦としての愛をもってかかわることができたその方は「にも拘わらず」という愛の仕方を実践していたと思います。