「門前払いされても、足の埃を落とし、逆らいの徴になりなさい」

   六甲教会説教箇条書き  、年間15主日

  今日の第二朗読(エェソ 1、10)では、「あらゆるものがキリストの下にまとめられるように」と言っています。

  「カトリックのもとに」と言っていません。カトリックもその他の姉妹なるキリスト教会もキリストのもとになるようにということです。

   保守的なローマ神学者がこのまない表現ですが、そのすべてのキリスト教会のことをあえて「姉妹教会」と呼び続けたいのです。私たちは、他の姉妹教会所属の信徒を私たちの垣根の中に取り込むよりも、皆キリストのもとにまとめられるようにと祈りたいものです。

   足の裏の埃を払い落としなさい(マルコ6,11)。

  世間では、望まれない来訪者を、合わずに追い返すことがあります。そのようにアモス預言者は門前払いをくわされたのです。彼は(今日の第一朗読にあるように)、パレスチナの北のほう、イスラエル王国にあったべテルという神殿の祭司たちから嫌われました。彼はその神殿の周りにみられた偽善と不正を告発したのです。

  彼は貧しい羊飼い家族の出身でした。当時の社会のひずみやゆがみを見ていられませんでした。そして人々が不正なことを行いながらも平気に神殿に拝みに来る姿も見ていられませんでした。

  そこで彼は厳しい社会批判の言葉で訴えたのです。そのため神殿の祭司から嫌われ、南の国ユダの国ヘ帰るように言われました。。「変えれ、変えれ、ユダの国へ、ここで予言するのをやめろ、ユダの土地に帰ってそこの飯を食ったほうが良い、とにかく帰れ、うちの国王はお前の予言が気にくわない」と言われるのです。

  その祭司の言葉はまさに国の政治と社会の不正とつながるような宗教のあり方を示しています。

  これは、いつの時代においても繰り返して起こることですが、イエスは弟子たちを励まし、「お前たちも門前払いを食わされるでしょう」と言います。

  しかしイエスはユーモアをもっています。「怒らないよう」と勧めます。それよりも、ささやかな皮肉を言っても良いでしょう。「はい、はい、門前払いされたらすぐ帰ります。そしてお宅から何も持ち帰りませんので、ご安心ください、いや、もしかするとあなたの家の門の前に立っていたから、私の脚にはあなたの家の埃がくついたかもしれません。では、それもお返しします」と言って、足の裏の埃を落として、さっさと帰るようにとイエスは勧めます。そして「他の浦へ次ぎから次へ旅を続けるようにしてください」と言います。出エジプト的な脱出の旅です。イエスの弟子は常に脱出的な旅を続けます。

  ところで、現在の教会においても似たような事が起こります。福音の心を持って、福音に基づいて社会問題、社会活動にかかわり、社会批判を訴える信徒や司祭や司教が協会の中で変わっ者として扱われ、敬遠されたり、のけもにされがちなnですが、その時イエス様の言葉を思い出したいです。「弟子は師にまさものではない(マタイ10、24)。。。私は悪魔と呼ばれたなら、あなた方はもっと酷く言われることだろう。恐れなしに逆らいの徴になりなさい」とイエスは言います。

  最近、日本語訳で、『カトリック教会の社会教説綱要』が著されました。去年、日本カトリック司教団は人権についての文書や経済危機でこまっている人々への助けを求める文書を著した時、「司教たちはアカだ」と言った保守的な信徒もいましたが、この前の火曜日に教皇が出された回勅(Caritas in veritate)を読めば,
もうそんなことが言えなくなるでしょう。

  どうか福音とi社会の密接な綱がり、福音宣教と社会正義と平和の密接なつながりをあらためて自覚するように願っております。