村八部にされたイエス

   六甲教会説教の箇条書き。年間14主日

  今日の福音の朗読は,マルコ6,1−6ですが、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言うのです。

  イエスはひさしぶりに自分の故郷ナザレに帰ってきたが、仲間はずれにされました。日本風に言えば、イエスは「村八分」とか「村はずし」という被害を受けたと言えましょうか。

   せっかく帰ってきた青年ですから、安息日に会堂で聖書を読むように招かれて、聖書を読んでからイエスはお話しますが、村人たちはその話しに耳を傾けなくて、「どうしてその話しができるのか、どこで学んできたのか」と首をかしげて文句を言います。日本風にいえば、この人は「名門交を卒業していないから」良い話ができるはずはないと置き換えることができるでしょう。

   前から身内の者はイエスがしたことのため、彼に対してしこりがのこっていたかもしれません。青年イエスは親と家を離れてヨルダン川の荒野へ修行しに出かけ、洗礼者ヨハネの弟子入りしたとき、親戚たちは反対だったと考えられます。「長男の癖に家を出るなんてけしからん」と言ったかもしれません。

   イエスは町について人が集まったとき、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえにきた」。(マルコ、3,21)とも言われています。

   村の人々は子供のときからイエスを知っています。イエスは長男で、その兄弟姉妹を皆知っています。四人の弟たちの名前もあげられています。ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンです。妹たちの名前は挙げられていないが、「姉妹たちも我々と一緒に住んでいるではないか」と言っています。(聖書学のふ十分な釈義の本では「兄弟姉妹」のことを「従兄弟たち」におきかえるのですが、教義上そういう読み方をする必要がありません)。

   尚、村人はイエスに対して差別用語を使っています。「大工ではないか」と言うのです。「名詞には有名な肩書きがないから」とか、「名門交にかよわなかったから」とか言って軽蔑してもよいのでしょうか。大工の仕事をしたものは聖書の良い読み方をしてはいけないというのでしょうか。

   さらに、もっと酷い差別表現があります。「マリアの子ではないか」。当時、父親の名前を言わずに、母親の名前だけで「マリアの子」と言う呼び方すれば、「私生児」であるという侮辱の表現でした。

   要するにイエスは「村の精神」にぶつかって、のけものにされました。

   では、この福音から示唆を受けて考えましょう。

   現在、教会の中でも似たことが起こります。たとえば、婦人会・壮年会・青年会などの中でも、イエスのように自由に意見を述べる人はのけ者にされ、「前例のないこと」を提案する人は外され、社会的な関心を持つ人は「赤よばわり」されたり、日本的に「長いものに巻かれ」たくない人は「反逆者あつかい」されたり、日本的な「役人気質の上下関係」と封建的な「先輩・後輩」関係にこだわらない人は「変わったもの」としてあつかわれたり、敬遠されたりすることがあります。
 
   前述したようなのことはいろいろな教会の中で見られる現象であり、内の教会も例外ではないという気もしないでもありません。

   では、福音にもとづいた人間関係のあり方を求め、教会の刷新をめざし、日本の社会にある人間関係のゆがみから解放されましょう。