予言と治療 Jesús profético y terapéutico 対話を恐れずに(5)Sin miedo a dialogar (5)

予言と治療 Jesús profético y terapéutico 
対話を恐れずに(5)Sin miedo a dialogar (5)


   本連載の5回目には「学び合いの会」合宿での話しを掲載しつづけます。洗者ヨハネとイエスのそれぞれの生き方の選択肢を比べて私たちは考えさせられました。洗礼者ヨハねネは砂漠での叫びです。イエスガリラヤの村々で人々を癒し、宗教と政治の現体制との対決します。

   宗教が社会に対してはたすべき二つの役割があります。社会との対話するだけではなく、社会の傷を癒す必要もあるし、人を傷つけ、対話しない者たちに対しては回心へと呼びかけ、対話するように訴えます。これは社会に対する「癒し」と「批判」といった宗教の役割です。

   イエスヨハネの弟子入りしており、ヨハネから洗礼を受けます。ヨハネの弟子の中からイエスに引かれた人もいたようです。しかし、ヨハネがヘロデから牢屋されたとき、イエスヨハネの運動の指導者(ヨハネのナンバー2)にはならないのです。イエスは進路を変えてガリラやヘ行きます。イエスは民衆に話し、希望を与えて、癒しをおこないます。

   一見してヨハネが厳しくてイエスが優しいと思う人がいるかもしれませんが、そう単純には言えません。ヨハネが投獄されていたとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て「期待されている者はあなたですか」と聞きます。 イエスは答えません。「私はメシアだ」と言わないし、 「私はメシアではない」とも言わないのです。 その代わりにこう言います、「貧しい人々に福音が伝えられ、目が見えない人が目が見えるようになる。。。私につまづかないものはさいわいです」と。

    ヨハネは厳しくて、イエズスは優しいと言ってしまえば、正確じゃないです。 イエスには優しさと厳しさ、両方あるのです。ヨハネとは違うところは、決して優しさではありません。イエスにもイエスなりの厳しさがあるのです。

    罪人に対してヨハネは回心をしなさいと訴えていました。 イエスは弱い立場にいる人、罪人、困った人、小さい人とともに歩み、その立場に立ってその人を受け入れ、癒します。 罪を犯して自分の罪を認めている人、貧しい人、小さい人も含めて、また社会の中で抑圧されている人、その人に対して慈しみをもってイエスは受け入れます。 そこに優しさがあります。 でも、その人々に対する慈しみのない人に向かってはイエスは厳しく訴えます。そしてイエスは神殿の制度と当時の宗教指導者たちとぶつかります。  

    パリサイ人とサドカイ人の中で、その指導者階級の中で、ヨハネのところに来た人がいると書いてあるんですが、ヨハネが捕らえられたのは神殿の宗教指導者たちではなく、ヘロデです。 でも、それはたまたまヘロデの結婚のことでヨハネから「いけない」と言われたからです。 しかし砂漠に行って回心を訴えて厳しい修行をやっているヨハネは別にエルサレムの宗教の指導者たちにとって都合が悪いことは記録されていないんです。神殿の制度とぶつかるということも記録されていないのです。

    イエスヨハネのようにヘロデとぶつかっているわけでもないのですが、 熱心党のように革命をしようともしていないし、神殿中心の指導さたちとも妥協しません。神殿の人々から見ればヨハネよりイエスのほうが危険人物なんです。

    イエスは抑圧者に向かってずっと訴えます。 「あなたがたは目が見えるというけれども、目が見えないんじゃないか」とずっと指摘し続けます。 これを典型的に表している言葉はヨハネ9章39節です。 ヨハネ9章は生まれつきの盲人の話なんです。 生まれつきの盲人には何の罪もありませんが、 この人は「世の罪」の被害者なんです。 イエスはその人を解放しますが、その人が癒されるのを喜ばなかった人々をいましめます。癒された非抑圧者は会堂から追い出されますが、彼を追い出した抑圧者たちに向かって、イエスは「あなた方こそ、目が見えるつもりでいるが、見えないんじゃないか」と指摘し続けます。 これは預言的な告発で、 prophetic な役割です。

    教会はいつの時代にも持っている2つの役割があります。それは、propheticすなわち預言的な役割とtherapeuticalすなわち治療的な役割、 慈悲をもって癒す役割です。 そして慈悲のないものたち、権力者たち、抑圧者たちに対して彼らの罪を指摘し続け、改心へと呼びかけ、人間解放を訴えます。

     しかしこれはいわゆる「断罪」ではありません。 抑圧者を自分たちの悪からも解放されるように助けなければなりません。 そして被抑圧者を解放しなければなりません。 両者に対して開放が必要です。これがマタイ11章で言った解放をもたらすために来たという言葉の意味です。 だからこの言葉と行動に「躓かない人々は幸い」と言うのです。 

    「あなたがメシア・救い主・期待されている者ですか」とイエスは聞かれます。答えは、「私がメシアかどうか、私が救い主かどうかは問題じゃない。 私がやろうとしていることを見なさい。そしてそれをやりなさい」と言うのです。イエズスが引き起こそうとしているこの運動、とらわれ人に開放を、目が見えない人が目が見えるように、 貧しい人々に福音を、。。。 これをやろうとしている人がいるところに、そこにメシアがいます。 そこに救いがあります。 

     私たち教会はイエスが引き起こそうとしていたあの運動を続けようとしている人々の集いです。

     イエスは革命を起こしたわけではない、 けれどもヨハネのように砂漠にとどまったわけでもいありません。人を癒すときあんなに優しい慈しみを示した方こそ神殿の指導者たちに対して厳しかったわけです。だから危険視扱いされました。 そこにイエスの優しさと厳しさがあります。 
 
     癒しを必要としている人に対するメッセージと慈悲のない人々に対するメッセージはなんでしょうか。 それが世界の政治指導者であろうとあるいは教会の最高指導者であろうと、訴え続けなければならないでしょう。

Terapia y profecía, opción de Jesús

Prosigue, en esta quinta entrada, la serie dialogal. Resumimos el tema del contraste entre el Bautista y Jesús, que tratamos en la convivencia de este año de la comunidad "Manabiai no kai", acompañados por el obispo Mori.

Dos roles sociales de la religiosidad: terapia y profecía; curar las heridas de la sociedad y denunciar sus causas. Dialogar no es condescender. La función terapéutica incluye el diagnóstico y la crítica.El contraste entre el Bautista y Jesús nos ayuda a pensarlo.

Jesús, discípulo del Bautista, podría haber pasado a sucederle, como su “número dos”, aprovechando su encarcelamiento. Pero no era esa la opción de Jesús.No se queda en el Jordán. Va a Galilea y recorre las aldeas, dando esperanza y curando al pueblo desfavorecido.Cuando le preguntan si es el que se esperaba que había de venir, no responde ni sí ni no, sino: “Mirad, los cojos andan, los ciegos ven, los pobres son evangelizados, dichoso quien no se escandalice”(Mg 11,2-6).

Dicen que Juan es duro y exigente, mientras que Jesús es compasivo y comprensivo. No es exacto el tópico. Jesús es misericordios para con el pueblo pobree, pequeño, explotado. Pero es duro en su denuncia de las causas de la opresión. Jesús es compasivo para pecadores, pero firme en llamar a la conversión.

La misión de Jesús es terapéutica y profética al mismo tiempo.
Jesús choca con la institución del templo. No habría chocado si se hubiera limitaqdo a predicar en el Jordán y bautizar. Pero se puso de parte del pueblo en Galilea y lo denunció en Jerusalén. Por eso jesús fue considerado peligroso para el régimen establecido y acabó como acabó.

A Juan lo encarcela Herodes por su crítica al emparejamiento ilegal, pero no lo habrían enmcarcelado los sacerdotes, fariseos y saduceos, ni los poderes del templo.A esos no les molestaba, en cambio sí les molestaba Jesús.  

Jesús cura al ciego, pero denuncia el “pecado del mundo” en los líderes ciegos que pretenden ser clarividentes (Jn 9,39). Libera al oprimido y denuncia a quienes no se alegran de su liberacoión, siendo causantes de su opresión.

La iglesia, heredera del movimiento de Jesús, está llamada a realizar ambas misiones, la terapéuitica y la profética. Lo olvida a lo largo de la historia cuando condesciende con el conservadurismo: el conservadurismo in telectual la hace caer en el fanatismo exclusivista; el conservadurismo religioso la hace caer en el autoritarismo dogmático; el conservadurismo político la hace votar al partido que le da seguridad y caer en la tentación de no ser profética frente a los causantes de la opresión; y el conservadurismo económico la hace preferir la foto con los empresarios , en vez retratarse con las turbas en la playa del lago Tiberíades...