「復活」とは「真・活」(真に生きること)である。

 六甲教会、聖書研究会箇条書き、ヨハネ11章について(一年間分のまとめ、2009年2月2日)。

1. 前回の復習
 ラザロの「蘇りの話」は史実の記録ではなく、象徴的な物語を通して信仰を表すものであり、「史実の記録」や「事実の情報」よりも、「信仰の現実」に触れさせる話である。イエスはいわゆる「奇跡的」にラザロを「この世のいのちに生き返らせた」のではない。
「復活」と呼ばれている出来事がけっしてこの世の生命に生き返えることではなく、永遠の生命に入ることを意味する。もしラザロはこの世の命に生き返ったとすれば、それは、正確には「復活」と呼ばれ得なかったであろう。

 そのためにヨハネはいかにも象徴的に、墓から出てきたラザロの姿をこう描いている。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言った」(11・44)。「ほどいてやって」と言わなければならなかったのである。

 ラザロをほどいて行かせてやらなければならなかったのと同様に、死に対する恐怖によって束縛されていた弟子たちをも解放してやらなければならなかったのである。そのためにこの物語の初めに、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気です」(11・3)と言われたとき、イエスはすぐ治しに行かない。後に「あちらに行こう」と言われたとき、弟子たちの中には、心配して、「先生、ユダヤ人たちは先ほども石打ちにしようとしたのに、また、そこへ行かれるのですか」と言う者がいた。結局、友人の病気を前にしても先生が殺される危険を前にしても、弟子たちの根本間題は、死に対する恐怖と不安である。

 まさにこうした不安から人間を解放することこそ、いわゆる「奇跡」よりも大きな奇跡であると言えるのではないだろうか。つまり、一人の死人を生き返らせるよりも、死に対する恐怖のあまり希望を失った人間に希望を取り戻させることの方が、より大きな奇跡であると言えよう。

 それが、この話の頂点をなすイエスの次の言葉の意味である。「わたしは復活であり、生命である。わたしを信じる人は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる人は皆、けっして死ぬことはない」。ここで言われている「いのち」とは、この世の生物学的な意味での生命に生き返ることでも、単なる life after death(死後生きながらえること)でもない。それはむしろ、現象としての生と死を越えた真のいのち、永遠の生命 life beyond death なのである。

 Ana-stasisすなわち復活は「再びこの世の命に生き返ること」ではなく、「真・新・身・活」であると言ったほうが適切であろう。復活とは「新たに真の命に入ることであり、二度と死ぬことがありえない身となって、永遠の命に入るということである」。復活とはイエス・キリスト自身である。従ってイエス・キリストにつながり、イエス・キリストに留まり、イエス・キリストと一致し、ひとつになっている者は「もうすでに、今ここで」(現在の時限での終末観)復活しているということになる。
2部.(続き、09−02−02)。

 イ)11,1−45:イエスがもたらすいのち、復活がともなういのち 11、46−54:イエスを死刑にする決断 11,54イエスと弟子たちはユダヤから遠ざかる。

 ロ)11、1−17:死を恐れる弟子たち。弟子たちは病気や肉体的な死によって真の命が殺されないことを理解しない。11、4:死こそ神の輝きの現れであり、死と生は表裏一体になっている。この世から見れば、死である。彼岸から見れば、命・栄光である。4,11:目覚めさせるとはこの世の命に生き返らせるのではなく、すでに永遠の命に立ち上がったことを確認させることである。 11、12・13 「寝ていれば元気になる」と言う弟子たちはイエスの言葉の二重の意味がわかっていない。11,14−15:「ラザロは死んだ」...「嬉しい」。この逆説的な言葉はヨハネの教団及び私たちに向かって復活者イエスは言われる。イエスを信じる者にとっては肉体的な死は避けられないが、それを超えて永遠の命に入った者は死ねない。11、17:四日目である...死体の腐敗がはじまっている。その現実を見つめる。

 ハ)11,19:「ユダヤ人」とは「当時ユダヤ人の既成宗教指導者たち」、いわゆる「現体制の者たち」。11,21−22マルタの気持ち、両義性、半分信じる半分信じない、イエスを信じても永遠の命を信じきれないヨハネ教団及び私たち...11,23:「復活するであろう」とマルタが使いそうな程度の消極的な表現でマルタを試すイエス 11,24:「終りの日」。マルタは復活のことを遠い先のこととしてとらえてしまう。11,25・26:クライマックス、この物語の頂点:「私こそ復活であり、いのちである」。イエスは「現在の時限のものとしての復活」を語り、自分自身が復活だとあえて宣言する。11,27:当時のマルタが言ったとは思えないことば、ヨハネ教団またはわたしたちが復活者を信じているときの言葉である。

 ニ)11,28−33  喪の悲しみ、哀悼。「イエスは心に憤りを覚え、興奮して...」。イエスも泣きたいが涙を押さえつける。11,38「イエスは再び憤りを覚えて、墓に来られた」。二つの意味が重なる。友を失ったイエスの涙と復活を信じきれない弟子たちに対して「憤りを押さえつけるイエス」の涙。

 ホ)11,38b−41 信じる者は死を見つめながら復活を確認する。11、41b−44死からいのちへ。11,40:「もし信じるなら、栄光がみられる」とイエスは言われる。「信じるならラザロがこの命に生き返る」と言っておられない。11、41:墓があけられるが、イエスは「下のほう」でもなく、「死体のほう」でもなく、「天のほうへ仰ぎ」、神に感謝する。11,42 :[これから]言うことは「彼ら[弟子たち、ヨハネ教団、私たち]に信じさせるため...」。11,43:「出て来い」。11,44:結末:「死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれている」。死の露骨な現象が力説される。「イエスは言われた、『解いてやって、行かせてください』」と。「迎えてください」と言わない、「衣類を着せてください」と言わない。「ヤイロの娘(マルコ5,43)の場合のように「食べさせてください」とも言わない。言われるのは「行かせてください」すなわち永遠の命に入った者を入ったままに永遠の命のほうへこの世から行かせてください」。死神によってつれていかれた者をつれていかれるままにさせてください。ラザロを「解いて行かせてください」と言うイエスヨハネ教団と私たちを死への恐怖から解き放ってくださる。

 ヘ)11,45−46。異なった反応が生じる。信仰と不信仰。復活を語ることは証明を持って人に信じさせることではない。イエスが与える「徴」を見て信じる者と信じないものがいる。「しるし」は「信じざるを得ないような「奇跡」でも「証明」でもない。たとえば、イエスは神の力を見せるために十字架から降りられるようなことをなさらない。降りられなかったからこそ『徴』となった。


 3部.復活を信じるとは何だろうか。

 復活信仰とは、「イエスは復活した」〔過去形〕という命題に対して頭で納得し、同意するよりも、イエスこそ復活であり、いのちであることをと信じ、今なお生きておられるイエスに自分を委ね切ることである。

 「自分が死んでから復活するであろう」(未来形)という表現で復活信仰を表すよりも、復活であり、命であるイエス・キリストのうちに留まり、キリストとつながっている者は、すでに復活していることを信じることである。

 十字架に付けられたイエスは今尚生きていることを証して私たちは日曜日ごとに集う。復活者イエスは今尚生きておられるというとは、幽霊の話しでも、地上のいのちに生き返る話でもない。復活者は永遠のいのちに入られ、もはや死ぬことがなく、神様のうちに永遠に生きておられる。

 コロサイの教会への手紙(3,1)では、「あなたがたのいのちは、キリストとともに隠されている」と言う。私たち一人ひとりの中にそのいのちがある。桜の花のいのちのように、冬のあいだ隠されている。春になると、隠れていたいのちが芽生え、現れる。仏教では一人一人の中に仏性があると言うが、キリスト者は一人ひとりの中に神様の息吹、人を生かす神様の息吹、聖なる霊、キリストの命があると信じている。