尊厳死は安楽殺人事件とは違う


六甲教会、説教箇条書き、09−02−08、年間第5主日、マルコ1,29−39

今日の福音には病人を癒すイエスの慈しみが述べられている。福音を伝える教会は病人の世話に関わる伝統をもっている。治療したり、苦痛緩和したり、死を迎える者に寄り添ったりすることは、イエスの福音を実践することである  

では、この福音を聞いたきっかけに、今週、欧米のマスコミをにぎわしたニュースについてコメントしたい。日本の報道機関も次のニュースを伝えた。

「イタリアで17年近く昏睡状態にある女性(エルアナ)が裁判で争った延命中止を認められ、栄養補給チューブを外してもらうために民間医院に転院した。 エルアナは20歳だった1992年、自動車事故で脳に回復不可能な損傷を負って昏睡状態に陥り、父が娘の尊厳死を求めて裁判を起こしていた。エルアナさんは交通事故に遭う以前、意識不明になった友人を見舞い、もし自分に同じことが起きたらこんな状態で生かされたくないと話していたという。 イタリアの最高裁は昨年11月、下級審の判断を支持し、治療打ち切りを認める判決を言い渡した。 しかし実際に栄養補給チューブを外してくれる病院探しは難航。当初複数の病院が受け入れる姿勢を示したが、厚生省の圧力を受けて引き下がった。最近、民間医院が受け入れた。ベルルスコーニ首相は閣議後の会見で「まだ生きている彼女の命を救うためすべての措置を取る」と語り、特別な政令を出した。延命停止に強く反発する一部のカトリック右派団体を意識したものとみられる。緊急政令を受け、議会が今後数週間内に同様の法案をまとめるとみられる。」

ところで、教皇庁の厚生省の責任者枢機卿ロザノ・イ・バラガンは失言し、「栄養管を取ることは殺人行為だ」と言ってしまった。その発言は日本で報道されるとき、おそらく誤解を招くであろう。私はカトリックの立場から生命倫理に長年関わってきた者として誤解を避けるために説明をする必要があると思う。次の点を念頭においておきたい。

1) 患者の尊厳を尊重しながら無意味な医療手段を停止した場合、それは使用義務がない医療手段をやめることであって決して安楽殺人と間違えてはならない。

2) 「死なせる」と言う表現には、二つの意味がある。ひとつは「死にいたらしめる」で、他は、「自然に死ぬのにまかせる」という意味である。前者は意図的に死に至らしめることになり、後者は死ぬのにまかせ、自然に死ぬのを妨げないことなのである。

3) 口から食べられなくなった高齢者を経管栄養で延命させることはかならずしも通常の医療とは言い切れない。問題はそれを患者の尊厳を大切にしたいからという意図で行われるのか、それとも単に医療費節約したいからという動機なのかである。というのは、倫理的にみて同じ内容の行為は意向によって違う評価を受けることがありうるのである。
 
さらに、その医療手段を使うべき時もあれば、使わなくても良い時もあるだろうが、両方の場合には、基準は患者の尊厳である。

エルアナの場合、栄養管をとるのは殺したいからでもなければ、彼女のいのちには価値が低いからでもない。彼女のかけがえのない人間としての尊厳を大切にしたいからこそ自然に死ぬのに任せるために栄養管を取る決定がくだされるのである。