教皇フランシスコ『愛の喜び』Amoris Laetitia 8章304・306

教皇フランシスコ『愛の喜び』Amoris Laetitia 8章304・306

ノルマと識別

304. 人の行為は一般的なノルマや規律に叶っているかどうかを検討するだけではその人の具体的な実存においてその人が神に忠実であるかどうかを識別するためには足りない。トマス・アクイナスの次の教えを思い起こし、司牧上の識別の中に取り入れたい。「一般的な原則において必然性はあっても、個別のケースになったら不確実性が増える。実践の領域において真理や実践的な確実性はすべての個別のケースに同じく適用することができない。一般的な原則についてだけその確実性がある。なお、そういった原則の適用はすべての行動に適用されうる場合でも、かならずしもすべての人がそれを把握できるとは言えない。具体的なケースに当てはめようとすればするほど不確かさが増える…

305.したがって司牧者は変則の状態にいる人々に対して倫理上の規範を石のように投げかけてはいけない。教会の教えを錦の御旗にしながら、かたくなな心をもって「モーゼの椅子に座って」、時に優越信と軽薄さをもちながら、複雑な問題や傷ついた家族をさばいてしまう者がいる…

 客観的に見て罪の状態と思われる条件の中にいる人は、さまざまな制約や情状配慮要素のため、主観的に罪科がないことがありうる。その人は神の恩恵を受けている状態におり、教会の助けを得て恩恵と愛得のうちに成長しつづけることがありうる。〔信仰上の良心的な〕識別に助けられて人は限界の中でも神の呼びかけに応答し、成長する可能な道を見いだす。どんな問題でも、白か黒かというアプローチしかできないと、恵みと成長への道が閉じられてしまい、神に栄光を帰する聖性への道をあきらめることになってしまう…  

306. どんな状況においても、神の掟を完全に守ることを困難に思われる者には愛の道への招きを聞かせたい。愛徳の道はキリスト者にとって最高の掟である。(cf. Jn 15:12; Gal 5:14).

教皇フランシスコ『愛の喜び』 8章  301−303 司牧上の識

教皇フランシスコ『愛の喜び』 8章  301−303 司牧上の識別


司牧上の識別における情状配慮

301. 変則と呼ばれている状況において特に識別は可能であり、必要でもある。このことを正しく理解するためいつも念頭においておかなければならない問題がある。つまり、福音からの要請を軽減してもよいと思ってはならない。教会〔の伝統における倫理の考え方〕には情状配慮および〔判断と自由な決断の〕制約に関してしっかりした考察が展開されてきた。

〔そうしたカトリック倫理の伝統にもとづいて次のことが言える〕。つまり、 変則と呼ばれている状況におかれているすべての者に関しては人を大罪の状態にあるとはもはや言えない。人はときに規範の認識をもたないこともあるし、または規範をよく知ってはいてもその規範〔の背後にある重要な〕価値を把握することは困難なこともある。または人が具体的な条件にしばられることもある。なお、もう一つの過ちに陥ることを避けるため、特定の決断をすることができないときもある。司教たちが指摘したとおり、「決断力を制限する要素がある」。トマス・アクイナスが認めていたように、「恩恵をそなわってはいても、徳の実践をよくできないことがある。 還元すれば、 すべての徳をそなわっている人でも、それをあらわすことができないことがあり、その実践が困難になっているのである」。

302. 〔責任がとれる自由な決断〕を制限づける条件についてカトリック教会のカテキズムはこう言う、「行為の責任性は、無知、不注意、暴力、恐れ、習慣、過激な感情、またその他の心理的ないし社会的要因によって感じられることがありうる」。他のところではカテキズムは責任を軽減させる状況についてふれ、詳しく次の条件を挙げている、「感情的な未成熟さ、身に着けた習慣の力、不安の状況、あるいは他の精神的・社会的要因などを考慮しなければならない。これらの要因によって倫理的罪責が軽くなったり、最小限に感じたりすることもある」。 
 
 それがゆえに、特定の客観的な状況に関する否定的な評価はかならずしも各当の人の責任性に関する判断とつながらない。 これらの条件を念頭においてわたしは司教たちとの次の判断に同意する。「ある状況に制約された場合人は今とろうとしている行動とは違うようなのを選ぶことはむずかしい。司牧上の識別において正しく養成された良心を考慮に入れながら、これらの状況を深刻に受け止めなければならない。人がとる行動の結果さえもすべてのケースにおいてかならずしも同じではないのである。

303. このような具体的な制約の重みを認めた上で、前述した人々や家族に対する教会の扱い方を見直したい。客観的に見て私たちの結婚観に合致しないいくつかの事実上の状況を取り上げるとき人の良心がはたす役割の重要さを考慮に入れなければならない。

確かに司牧者の真剣で責任のある識別によって同伴され、養成され、照らされる良心の成熟を促進しなければならないし、恩恵に対する信頼も養わなければならないのであるが、しかし良心の役割は単に特定の状況が客観的に見て福音の要請に合わないことを認識するに終わるものではない。

良心は、現状況の限界の中で神に答えるためには、自分にできる寛大な応答を誠実に認めることもできる。そしてその答えは客観的な理想にまだ十分に合致しないにしても、具体的な限界の複雑さの中で神が求めていることであることを十分な確信をもって見いだすことができる。ただこの識別は発展的であり、新しい成長段階に開かれていなければならないことを忘れてはならない。なお、識別は理想をより十全に実現できるように開かれていなければならない。

教皇フランシスコ著『愛の悦び』Amoris laetitia 8章  296・303

296. 司教たちはいくつかの異なった弱さや不完全性〔不完全な心の持ち方や信仰生活のあり方〕の状況について言及した。これに関して道を誤らないように別な機械に教会に私は思い起こさせた次の点を明らかにしておきたい。
〔端的に言えば〕、“教会の歴史を振り返ると、いつの時代おいても二種類の考え方が見られる…一つは人を排除するもので、今一つは排除された人々を迎え入れなおすのである… エルサレム公会議以来、教会の道はいつもイエスの道であり、慈悲をかけることと人を排除しないことである… 教会の道と言えば、だれも取り消しがつかない形で断罪しないことである…神の慈悲を誠実な心で求めるすべての人に神の慈しみを注ぐことは教会の道である…真実の慈愛は無償で、無条件で、誰もそれを与えられるに値しない者である…”したがって「諸状況の複雑さを考慮に入れた上で、)〔裁きの〕判断を避け、自分が背負っている条件の為の痛みをもって生きている人々に関心をむけたいのである」。〔言い換えれば、司牧者たちは教えをはっきりと伝えながら人々がおかれている種々の複雑な状況を考慮に入れないような判断を下すことを避けるべきであり、司牧者たちは人の生活の仕方と人が背負っている条件の為に苦しまれていることによく目を向ける必要があるということである〕。.
297. 誰も排除してはいけない。どの人でも教会共同体のなかで、自分にふさわしい参加に仕方を見いだすように手伝わなければならない。どの人でも無償で、無条件で、自分がそれをいただくに値しない慈悲の対象であることを感じるように手伝わなければならない。だれも取り消しがつかない形で断罪されるべきではない。そんな断罪は福音の論理に合わない。私はこのことを断言するとき離婚してから再婚した人びとについて話しているだけではない。この断言はどんな状況におかれている人についても当てはまるのである。
〔もちろん、人が教会共同体と縁ようなを切る次のような場合、注意しなければならない〕。人が教会共同体から自分を離させることは起こりうる。例えば、ある人は客観的に罪と言えることはキリスト者の理想であるかのように示し、それを誇りにさえしていれば、当然その人に教会で教鞭をとるまた公共要理をを教える〔責任を〕ことを認めるわけにはいかないであろう。 (マタイ18,17参照)。その場合。その人に福音の告知を聞かせ、回心へと招かなければならないであろう。しかしその人の為にも共同体の生活に参加する方法がありうるはずである。たとえば、社会活動や祈りの会やその人と司牧者の識別によって見出されるその他の方法があろう。
合法的でない状況をどのように扱うかによって司教たちは次の合意を得たが、私はそれを支持する。「民法による結婚をしている人々、離婚した人々と再婚した人々への司牧的なアプローチについては、教会の役割は、彼らの生活の中における、神の恵みの導きを明らかに示すこと、また彼らのための神の計画の完成に、彼らが到達できるよう助けることにある」。このことは聖霊の恩恵によっていつも可能である。
298.離婚してから再婚した人々は随分異なった状況に置かれていることがありうる。これらの状況はわりきって決まったカテゴリ―に分類されないし、個人的識別と司牧的識別のために余地を残さないような型に嵌った断言で表せない。時間がたって確率された再婚で、夫婦同志の忠実が確認され、新しいいのちも生み出し、互いに与え合い、信者としてしっかりしている人々で、自分たちの身分が合法的であると知りながらも後戻りすればもう一つの誤りを犯すことになる場合がある。「子どもを養育していくために再婚した人」に別れさせるわけにはいかないことを教会は承知している。「最初の結婚を貫こうと真心誠意努力したにもかかわらず、不当に放棄された人々」もいれば、「子どもを養育していくために再婚した人」で、場合によっては「やり直しの聞かないほど破壊してしまった前の結婚は最初から有効ではなかったと自分の良心において主観的に革新している人々がいる」。これとは違うような場合もある。例えば、最近離婚したばかりで、こどもやそれぞれの家族に苦しみと混乱をもたらした人やしばしば自分の家族に対する義務を怠った人はそうである。これは結婚と家族の為に福音に基づいた理想ではないことをあきらかにしておかなければならない。司教たちが述べたとおり、司牧者が識別するとき、それを「状況をふさわしくわきまえなければならない」。そして「聖ヨハネ・パウロが勧めたように、それぞれの異なった事情に配慮したまなざしが必要となる」。教皇ベネディクト16世が言ったように、「簡単な処方箋がないことを私たちがよく知っておる」。
299,離婚してから民法上再婚した受洗者について司教たちがした提言をわたしは受け入れる。その人々は、スキャンダルを避けて、可能な限りのいろいろな形でキリスト教コミュニティにより完全に溶け込む必要がある。誰も排除しない〈logic of integration包容力の理法・迎えいれることの道理〉はこの人々の司牧的同伴の為のカギである。彼らはキリストの体である教会に属していることを知るだけではなく、幸福にして実を結ぶ経験を持つことができるように。彼らは受洗者であり、兄弟姉妹であり、教会全体のためになる賜物を聖霊は彼らの上に注ぐ。彼らの参加の仕方は多くの形式を帯びることができる。そこで現在行われている種々の排除の形式 (典礼、司牧、教育など)について検討し、どのようにそれら〔の制限を〕なくすことができるかについて考えなければならない。彼らは破門されていると感じてはいけない。彼らは教会の生けるメンバーとして成熟していくこともできるし、教会はいつも親の心をもって彼らを世話し、人生の道と福音の道を歩むようはげますのである、このように彼らが排除されないことはその子供たちの育ちと子どもの信仰教育において重要視されなければならない。」
300. 前述した具体的な状況の多様な種類を我々が考慮するならば、Synodusまたは本勧告からすべてのケースに当てはまる教会法上の一般的な規則の新しいセットを提供することを期待できないことがあきらかであろう。
可能なことは特定のケースの確実な個人的にして司牧的な識別を責任をもって行われるようにはげますことだけである。
「責任の程度が、すべてのケースにおいて等しいというわけではあない」、規則の結果または影響が必ずしもすべてのケースにおいても同じではないはずである
「教会の教えと司教の導きにしたがって識別の道を歩んでいる人を同伴するのは司祭の役割である。この過程において反省と痛悔の契機を含む良心の究明をすることは役に立つであろう。離婚してから再婚した人は夫婦関係が悪くなり始めたときからどのように子どもに対してふるまったかと自分に問いかけ、夫婦の間の和解を試みたか、放棄された配偶者はどの状況におかれているか、新しい配偶者との関係からどのような影響が家族の他のメンバーや教会共同体に及ぼされるのか、結婚準備している青年たちにとってどのような模範をみせているのか…などについて反省しなければならないであろう。正直に反省すればだれにも拒まれない神のいつくしみへの信頼が強められる。
ここで勧めているのは、「神の前に彼らの状況の誠実な認識に導く」識別の同伴を通して、〔教会共同体の典礼秘跡への十全たる参加の仕方の可能性を妨げていr〕自分たちの条件について神の御前に反省することである。内的法廷・良心の法廷の場で司祭との会はを通して教会生活への彼らの参加をを妨げるk条件について正しい判断に至ることができよう。
ただFamiliaris consortio 34で言われているように、「漸進性の法〈一歩一歩段階的に成長していくこと〉を抱の漸進性と同一視して間違えてはならない。〔…異なった個人や状況に対応して、法の命令にも異なった段階があるかのように考えることができないということを念頭において〕、前述した識別は教会によって提供されている福音の真理と愛の要請をみのがすわけにはいかない。その為にそういった識別に伴うべき条件をよく念頭に置いておきたい。つまり、謙遜、懸命さ、教会とその教えに対する愛、神のみ旨を誠実に求めること、神の呼びかけにより完全に答える望みはその条件である。
この識別のことを誤解されれば、教会が二重基準の倫理を支持していると思われてしまうことが懸念されようが、識別の過程をともに歩む信徒と司牧者両車とも責任をもってその識別を行う場合、その危険性がないだろう。司牧者も相談に来る信徒も識別の正しいあり方を守るべきである。つまり、信徒は教会の共通善を自分の個人の望みよりも大切にし、司牧者は扱っている問題の重大さを申告に受け留ななければならない。

教皇フランシスコ『愛の悦び』 Amoris laetitia 第8章 (つづく 293-295)
293.司教たち(synod fathers、世界代表者会議・シノドス参加者の司教たち)は〔信者同志の〕民法だけによる結婚(merely civil marriage)または事実結婚(simple cohabitation)−この二つの結ばれ方の間にしかるべき区別をつけた上で=の特定の状態に焦点をあわせて次のように指摘した。「そのように結ばれたカップルの結合(union)は法律上認められた〔公的なきずなの〕特定の安定性を備わっており、親密な愛および子どもに対する責任および試練を克服する能力によって特徴づけられた場合、司牧的な配慮をする機会になりうる。 こうしたカップル〔の状態、あり方〕は結婚の秘跡〔の実現〕のほうへ向かっていると言えて、その途上の上で、彼らの歩みに同伴する好機と見ることができる。(注315 Relatio Synodi 2014, 27)
一方、最近、結婚の制約に対して多くの若者たちが不信を抱いていることを懸念し、また多くの信者が、引き受けた婚姻の絆を性急に断絶した暁に、すぐ新たなきずなを結ぼうとするのだが、わたしたちはこの現実に対して心を痛めている。というのも、その若者たちは「教会の一部をなすこれ信者であり、〔個々の状況を十分に〕識別した司牧的な関心とあわれみ、そして励ましを受ける必要があるからである。(注316: Ibid.26)。
司牧者の役割はキリスト教の結婚観を促進させるだけではなく、「この〔結婚に理想を〕現実に合致しない状況の中で生きている多くの人を助けること」でもある。「キリスト教の結婚を宣言し、促進する一方で、シノドスは、もはやこの現実を生きていない多くの人々の状況について、司牧的な識別がなされることを奨励する。(注317 Ibid. 41 )この人々の生活の中に、結婚の福音の十全性に対する、より開かれた態度へ導く要素を発見するため、彼らとの司牧的な対話に入ることが重要である。司牧者たちは、福音化と人間的・霊的成長のためになるような要素を見いだしていかなければならない」。(注318 Ibid. )
294.「民法上の結婚または、他の場合、同棲関係だけに留まることを選ぶのはしばしば秘跡的な結びつきに対する先入観や抵抗の為ではなく、種々の文化上の偶然の理由の為である」。(注319 Final Report 2015, 71 )これらの状況において、「神の愛を何らかの形で映しうるしるしを評価できよう」(注320 Ibid.)
周知のとおり「長期間にわたって同棲した後で、教会での結婚を求める人々の数が増え続けている。単純な同棲は、しばしば、制度や絶対的な制約に対する漠然とした反感によることも多い。しかし生活面での安定(雇用や定期的な収入)を確保するまで待っているということもある。またさらに他の国々では、事実婚が非常に多くなっているが、これは家族や結婚の価値の拒否ばかりでなく、社会的状況の中で結婚は金銭的負担が多すぎると考えられているためであり、物質的な貧困が人々を事実婚に押しやっているという状況も存在する」。(注321 Relatio Synodi 2014, 42)
しかし「すべてのこうした状況に直面して、建設的な仕方で対処しなければならあい。これを、福音の光によって結婚と家庭の完成に向けて歩み始める好機に変えていかなければならない。それはこうした状況を忍耐と微細さをもって受け止め、ともに歩んでいくということである。(注322 Ibid.43)これこそサマリアの女性に対してイエスがとった態度(ヨハネ4、1−26参照)であり、真の愛を求めていた彼女に言葉をかけ、その人の人生を暗くしていたすべてのことから解放し、福音の真の喜びに導いた。
295.この意味で、聖ヨハネパウロ2世は「段階性の原則」(the law of graduality、段階的に人を導くこと) を提言し,つまり、「人間は成長するにつれて道徳的善を知り、愛し、それを実現する」(注 323 Familiaris consortio 34)。それはいわゆるgraduality of the lawつまり、法則そのものにおける段階ではなく、法の客観的な要請を十分に理解し、評価し、実践する条件に置かれていない人の自由な行為の実践のしかたにおける懸命な導き方である。法もまた神の賜物であり、道を指し示すものである。この賜物はすべての人のためのものであり、恩恵の助けによってその要請に従って生きることが可能である。ただそれぞれの人は異なった「成長段階をたどって進み、故人と社会の生活の中で神の賜物を段階的に生かしていき、神の決定的で絶対的な愛の要請に答えていくのである」。(注 324 Ibid. 9)

教皇フランシスコ著『愛の悦び』Amoris laetitia』8章

愛の喜び 第8章〔説明的・意訳を含む〕試訳

弱さと識別そして同伴

ACCOMPANYING, DISCERNING AND INTEGRATING WEAKNESS
弱い立場に置かれている者に寄り添って同伴し、識別する。
弱さを排除せずに(integrating weekness)、弱さの中で道探しする者(discernment)とともにあゆむ(accompanying)

291.シノドス教父たち〔以下は〈司教たち〉と省略する〕述べている通り、教会は結婚の絆を「破壊することはいかなるものであれ神の意志に反することうを認めつつも、教会の多くの子らの弱さにも気づいている」(Relatio synodi 2014, n. 24)。イエス・キリストのまなざしに照らされた教会は「不完全な形で教会生活に参加している人々の生活の中にも神の恵みが働いていることを認め、愛をもってその人びとに向き合う。この恵みは、彼らに善をなし遂げ、互いに愛をもって思いやり、自分が生活し、働いている共同体に奉仕する勇気を与えている」(Relatio synodi 2014, n. 25)。

他方では、教会のこの姿勢は慈しみの特別聖年において強められます。教会は、いつも完全性〔の理想の道〕を示し、神〔の呼びかけ〕に対するより充実した応答へ招きながらも、「教会は注意と思いやりをもって、愛に傷つき、あるいは愛を失って、非常にもろくなっている子どもたちに同伴しなければならない。教会は、灯台の光として、あるいは方向を見失い、嵐の中にある人々を照らす松明として、その人々に再び信頼と希望を与えなければならない」(Relatio synodi 2014, n. 28)。教会の課題はたびたび野戦病院にでもたとえられることを忘れてはならない。

292.キリスト者の結婚はキリストと教会との一致の映しであり、自由にまたは独占的に結ばれる男女の相互の与え合いにおいて実現されるが、このように結ばれる夫婦は命の伝達に開かれ田植えで、〔ともに一体化して〕人生を添い遂げる。彼らが築いていく家族がいわゆる家庭内教会と言えるものになり、社会に新しい命の息吹を吹き込む種となるためには、秘跡の恵みは彼らに注がれている。

この理想と根本的に相いれない結婚形式もあれば、その理想を部分的または類似的にしか実現していない他の結婚形式がみられるが、司教たちが指摘しているように、教会は「キリスト教のメッセージにいまだ、あるいはもはや、合致しない状況の中にも存在する建設的な要素を」評価しないわけにはいかない(Cf. Relatio synodi 2014, n.41, 43 Relatio synodi 2015, n.70)。

イエス・キリストは慈しみ深い神の顔 

いつくしみの特別聖年、公布の大勅書、教皇フランシスコ著『MISERICORDIAE VULTUS』の抄訳
(説明を含む意訳)。

イエス・キリストは、父なる神のいつくしみのみ顔です。(Misericordiae vultus,1)神の憐れみは喜びの源、心の平安と平和の泉です。(2)

わたしたちは日々の生活を通して神のいつくしみを映すことができるように、わたしたちのまなざしをイエスの振る舞い方へと向けます。わたしたちはその招きに答えたいものです。これこそ、わたしがこのいつくしみの特別聖年を交付した理由です。(3)

十二月八日を選んだのは、この日は教会の最近の歴史にとって重要な意味をもっているからです。まさに第二バチカン公会議閉幕五十周年目にあたる日に、わたしは聖なる扉を開きます。教皇ヨハネ二十三が述べたように、「教会は、厳格さという武器を振りかざすよりも、いつくしみという薬を用いりたいです」(4)。

神のいつくしみとは抽象的な概念ではなく、親の愛のように、具体的な現実です。「はらわたがちぎれる」この愛は「いたわり・あわれみ・慈しみ・やさしさ・ゆるし・寛大さ」などの形で溢れ出るのです。(6)「いつくしみはとこしえに」。これは、神は人類の歴史に現れたことを語る詩編136 の各節で繰り返されることばです。(7)イエスが語ったたとえ話の中で福音の真髄とわたしたちの信仰の中核を見出します。わたしたちは、いつくしみを生きるように招かれています。わたしたちがまずいつくしみを受けたからです。(9)この聖年はイエスの言葉に照らされて過ごしたいです。「父なる神があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ6,27)。(13)


巡礼は聖年の間、特別な位置を占め、人生が旅であることを思い起こさせます。聖なる門をくぐり、神の慈しみに抱かれるままに任せながら、神のようにわたしたちも人に対していつくしみをしめすように願いましょう。(14)
わたしの願いは、この聖年の間にキリスト者が、身体的な慈悲のわざと精神的な慈悲のわざについてじっくりと考えてくださることです。

いつくしみの偉大さに触れさせるゆるしの秘跡は心の平安をもたらします。贖罪司祭は神の慈しみの真のしるしになってほしいです。。。贖罪司祭が、放蕩息子のたとえのように、信者を迎え入れなければなりません。(17)

この聖年の四旬節の間に、「慈しみの分配者」としてつとめる贖罪司祭には、使徒座に留保された罪さえも赦免する権限を委託します。(18)神のゆるしの告知はすべての人に届くように願い、特に回心を呼びかけたいのは、生活たいどのうえで、神の恵みから遠ざかっている者にたいしてです。(19)

なお、正義といつくしみの関係について留意しましょう。イエスは言う、「わたしが求めるのはあわれみで、いけにえではない」(マタイ9,13)。(20)

聖年にはいわゆる「特別な祝福・めぐみ」(注1)をいただける祈りがともないます

この「特別な祝福・恵み」(INDULGENCE,免償と呼ばれる祝福)は、聖年の期間中、とくに大切にしたいです。わたしたちの罪に対する神の憐れみ・慈しみには際限がありません。。。ちなみに次のときにそれが示されています。

1)罪のゆるしを与えるとき(赦免)

2) ゆるされた罪の傷跡をいやし、信仰生活の滋養のための特別な祝福・恵み(indulgence免償、)をくださるときです。 ゆるしを受けたにもかかわらず、わたしたちの生活には罪の結果である矛盾が残っています。和解の秘跡で、罪は本当に消しさられますが、罪の療跡が残ります。しかし神のいつくしみはこれよりもずっと強いのです。

神のいつくしみは「特別な祝福・恵み」となり、神は、教会のつとめをとおして、罪がゆるされた者をなお力づけ、罪の結果としてのすべての療跡をいやし、愛する能力において成長するように力づけ、これから罪に陥らないようにたすけるのです。

さらに、〔聖徒のつながりを作る聖霊を信じる〕教会は「生徒のまじわり」の中に生きております。感謝の祭儀の中で、この「信仰者の交わり・つながり」は、諸聖人とわたしたちを結ぶ霊的な一致として、現実のものとなります。かれらの聖性はわたしたちを助けます。教会では祈りと生活をもって、ある者の弱さとまた別のある者たちの聖性とが結ばれます。聖年に「特別な祝福・恵み」を体験し、父なる神の慈しみに近づきます。この「特別な祝福・恵み」とは教会の聖性の体験であり、教会はすべての人をキリストの恩恵にあずからせます。罪をゆるし、いつくしみに満ちた「特別の祝福・恵み(免償)」を広げてくださるよう父なる神に願いながら、この聖年を過ごしましょう。(22)

注1.この「特別な祝福・めぐみ」はindulgence「免償」という誤解されやすい法律用語で呼ばれてきました。『カトリック教会のカテキズム』1471と『新教会法』992・996では、その用語で説明されておりますが、教皇フランシスコはindulgenceのことを語るときその理解を深め、法律的な用語よりも、「いやし」、「作り直し」、「回復」、「再生」「セラピ」、「力づけ」、「罪がゆるされた後の傷跡の修復」などのような「いやし的なイメージ」を用いてこの「特別な祝福・恵み」としてのindulgenceのことをあらためて解釈しております。

マリアの処女懐胎は生物学の意味ではなく、信仰の象徴的な話です

(スペイン語の原文を読むためにはマシアHPを参照:www.juanmasia.com

Virginidad y alumbramiento)

マタイ福音書とルカ福音書におけるイエスの誕生物語は史的事実でもなければ、子供向けのおとぎばなしでもありません。それは信仰の立場からの創作です。その物語をとおしてイエスとは誰であるのか、そして神はどのように現れ、どこに見出されるのかということが伝えられます。

この話しをきれいごとにしてしまうと、マリアの妊娠は奇跡的な出来事であるかのように扱われ、イエスの誕生は例外的なことのように描かれてしまいます。しかし、イエスの誕生は例外的であったというよりも、むしろすべての誕生において起こる不思議な謎はイエスの誕生に照らして解き明かされると言ったほうが適切な読み方のように思われます。というのは、どの子でも親から生まれると同時に、聖なる息吹によって生まれると言えるからです。

マタイ福音書に現れているように、ヨセフはイエスの遺伝の親ではありませんが、マリアの結婚についての歴史的事実まで私たちが遡ることができません。さまざまな伝承が伝えられております。ある伝承によるとマリアは性的虐待の被害者だったのではないかとさえ言われていましたが、その伝説の根拠は確かめられません。しかし、かりにそうだったとしても、イエスにおいて神が決定的に現れ、イエスこそ我々の間に現れた神ご自身であるという信仰を否定することにはなりません。かえって、どこに神が現れるのかということをますますはっきりと伝えられるようになるのです。

井上洋治神父は適切に書いていたように聖書の表現が、表層意識にもとづく合理的言語によるものではなく、深層意識に根ざした象徴的次元を持つ言語表現であるということから、この処女という意味を生物学的、整理学的にとらずに、[イエスは、確かに私たちと同じ人間ではあるけれども、同時に神性を宿しているという意味で私たち仏の人間とは決定的にちがう、神の子・キリストなのだ]という信仰の真実を、この「処女」という言葉で表現しているのだ」(井上洋治、『キリスト教がよくわかる本』、1995、p. 34

マリアの妊娠がわかって戸惑っていたヨセフはみ使いが現れるという場面をマタイが描いたのですが、そのときのみ使いの言葉を次のように置き換えることができましょう。「ヨセフよ、心配するな、この妊娠は神の息吹によって見守られています。つまり、どんな事情によって身ごもったにしても聖霊によって守られ、神の力と導きによってその誕生が見守られています。どんな事情によって身ごもったにしても神の息吹によってその誕生が見守られています。