イエス・キリストは慈しみ深い神の顔 

いつくしみの特別聖年、公布の大勅書、教皇フランシスコ著『MISERICORDIAE VULTUS』の抄訳
(説明を含む意訳)。

イエス・キリストは、父なる神のいつくしみのみ顔です。(Misericordiae vultus,1)神の憐れみは喜びの源、心の平安と平和の泉です。(2)

わたしたちは日々の生活を通して神のいつくしみを映すことができるように、わたしたちのまなざしをイエスの振る舞い方へと向けます。わたしたちはその招きに答えたいものです。これこそ、わたしがこのいつくしみの特別聖年を交付した理由です。(3)

十二月八日を選んだのは、この日は教会の最近の歴史にとって重要な意味をもっているからです。まさに第二バチカン公会議閉幕五十周年目にあたる日に、わたしは聖なる扉を開きます。教皇ヨハネ二十三が述べたように、「教会は、厳格さという武器を振りかざすよりも、いつくしみという薬を用いりたいです」(4)。

神のいつくしみとは抽象的な概念ではなく、親の愛のように、具体的な現実です。「はらわたがちぎれる」この愛は「いたわり・あわれみ・慈しみ・やさしさ・ゆるし・寛大さ」などの形で溢れ出るのです。(6)「いつくしみはとこしえに」。これは、神は人類の歴史に現れたことを語る詩編136 の各節で繰り返されることばです。(7)イエスが語ったたとえ話の中で福音の真髄とわたしたちの信仰の中核を見出します。わたしたちは、いつくしみを生きるように招かれています。わたしたちがまずいつくしみを受けたからです。(9)この聖年はイエスの言葉に照らされて過ごしたいです。「父なる神があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ6,27)。(13)


巡礼は聖年の間、特別な位置を占め、人生が旅であることを思い起こさせます。聖なる門をくぐり、神の慈しみに抱かれるままに任せながら、神のようにわたしたちも人に対していつくしみをしめすように願いましょう。(14)
わたしの願いは、この聖年の間にキリスト者が、身体的な慈悲のわざと精神的な慈悲のわざについてじっくりと考えてくださることです。

いつくしみの偉大さに触れさせるゆるしの秘跡は心の平安をもたらします。贖罪司祭は神の慈しみの真のしるしになってほしいです。。。贖罪司祭が、放蕩息子のたとえのように、信者を迎え入れなければなりません。(17)

この聖年の四旬節の間に、「慈しみの分配者」としてつとめる贖罪司祭には、使徒座に留保された罪さえも赦免する権限を委託します。(18)神のゆるしの告知はすべての人に届くように願い、特に回心を呼びかけたいのは、生活たいどのうえで、神の恵みから遠ざかっている者にたいしてです。(19)

なお、正義といつくしみの関係について留意しましょう。イエスは言う、「わたしが求めるのはあわれみで、いけにえではない」(マタイ9,13)。(20)

聖年にはいわゆる「特別な祝福・めぐみ」(注1)をいただける祈りがともないます

この「特別な祝福・恵み」(INDULGENCE,免償と呼ばれる祝福)は、聖年の期間中、とくに大切にしたいです。わたしたちの罪に対する神の憐れみ・慈しみには際限がありません。。。ちなみに次のときにそれが示されています。

1)罪のゆるしを与えるとき(赦免)

2) ゆるされた罪の傷跡をいやし、信仰生活の滋養のための特別な祝福・恵み(indulgence免償、)をくださるときです。 ゆるしを受けたにもかかわらず、わたしたちの生活には罪の結果である矛盾が残っています。和解の秘跡で、罪は本当に消しさられますが、罪の療跡が残ります。しかし神のいつくしみはこれよりもずっと強いのです。

神のいつくしみは「特別な祝福・恵み」となり、神は、教会のつとめをとおして、罪がゆるされた者をなお力づけ、罪の結果としてのすべての療跡をいやし、愛する能力において成長するように力づけ、これから罪に陥らないようにたすけるのです。

さらに、〔聖徒のつながりを作る聖霊を信じる〕教会は「生徒のまじわり」の中に生きております。感謝の祭儀の中で、この「信仰者の交わり・つながり」は、諸聖人とわたしたちを結ぶ霊的な一致として、現実のものとなります。かれらの聖性はわたしたちを助けます。教会では祈りと生活をもって、ある者の弱さとまた別のある者たちの聖性とが結ばれます。聖年に「特別な祝福・恵み」を体験し、父なる神の慈しみに近づきます。この「特別な祝福・恵み」とは教会の聖性の体験であり、教会はすべての人をキリストの恩恵にあずからせます。罪をゆるし、いつくしみに満ちた「特別の祝福・恵み(免償)」を広げてくださるよう父なる神に願いながら、この聖年を過ごしましょう。(22)

注1.この「特別な祝福・めぐみ」はindulgence「免償」という誤解されやすい法律用語で呼ばれてきました。『カトリック教会のカテキズム』1471と『新教会法』992・996では、その用語で説明されておりますが、教皇フランシスコはindulgenceのことを語るときその理解を深め、法律的な用語よりも、「いやし」、「作り直し」、「回復」、「再生」「セラピ」、「力づけ」、「罪がゆるされた後の傷跡の修復」などのような「いやし的なイメージ」を用いてこの「特別な祝福・恵み」としてのindulgenceのことをあらためて解釈しております。