マリアの処女懐胎は生物学の意味ではなく、信仰の象徴的な話です

(スペイン語の原文を読むためにはマシアHPを参照:www.juanmasia.com

Virginidad y alumbramiento)

マタイ福音書とルカ福音書におけるイエスの誕生物語は史的事実でもなければ、子供向けのおとぎばなしでもありません。それは信仰の立場からの創作です。その物語をとおしてイエスとは誰であるのか、そして神はどのように現れ、どこに見出されるのかということが伝えられます。

この話しをきれいごとにしてしまうと、マリアの妊娠は奇跡的な出来事であるかのように扱われ、イエスの誕生は例外的なことのように描かれてしまいます。しかし、イエスの誕生は例外的であったというよりも、むしろすべての誕生において起こる不思議な謎はイエスの誕生に照らして解き明かされると言ったほうが適切な読み方のように思われます。というのは、どの子でも親から生まれると同時に、聖なる息吹によって生まれると言えるからです。

マタイ福音書に現れているように、ヨセフはイエスの遺伝の親ではありませんが、マリアの結婚についての歴史的事実まで私たちが遡ることができません。さまざまな伝承が伝えられております。ある伝承によるとマリアは性的虐待の被害者だったのではないかとさえ言われていましたが、その伝説の根拠は確かめられません。しかし、かりにそうだったとしても、イエスにおいて神が決定的に現れ、イエスこそ我々の間に現れた神ご自身であるという信仰を否定することにはなりません。かえって、どこに神が現れるのかということをますますはっきりと伝えられるようになるのです。

井上洋治神父は適切に書いていたように聖書の表現が、表層意識にもとづく合理的言語によるものではなく、深層意識に根ざした象徴的次元を持つ言語表現であるということから、この処女という意味を生物学的、整理学的にとらずに、[イエスは、確かに私たちと同じ人間ではあるけれども、同時に神性を宿しているという意味で私たち仏の人間とは決定的にちがう、神の子・キリストなのだ]という信仰の真実を、この「処女」という言葉で表現しているのだ」(井上洋治、『キリスト教がよくわかる本』、1995、p. 34

マリアの妊娠がわかって戸惑っていたヨセフはみ使いが現れるという場面をマタイが描いたのですが、そのときのみ使いの言葉を次のように置き換えることができましょう。「ヨセフよ、心配するな、この妊娠は神の息吹によって見守られています。つまり、どんな事情によって身ごもったにしても聖霊によって守られ、神の力と導きによってその誕生が見守られています。どんな事情によって身ごもったにしても神の息吹によってその誕生が見守られています。