聖年の特別な恵み(indulgence、贖宥・免償)を見直した教皇フランシスコ

さいころから私たちは、教会のカテキズムをつうじて、「私たち信徒はみな同じ身体のメンバーとして、お互いのために祈りを分かち合うべきである」と教わってきました。これは、どういうことでしょうか。これは、いわゆる「聖徒の交わり」と呼ばれるものです。この世に生きる私たち信徒も、既に亡くなった信徒も皆、お互いのために祈ることで、私たち皆が神さまの尽きることのない慈しみにあずかることができることを意味します。

神さまの慈しみは、体の中を循環している血液に似ています。心臓から全細胞に酸素、そして命をもたらすのは血液です。この血液が神さまの慈しみだと考えてください。そして私たちが祈りを通じて分かちあうことで、血液が身体に行き渡って命が与えられるのと同じように、神さまの慈しみが私たちに注がれて流れていくのです。だから、私たちはいつも慈しみにあずかっています。この状態が「聖徒の交わり」またはやです(「生徒のつながり」や「聖霊の一致」や「聖霊のまじわり」とも言えます)。つまり、聖徒の交わりとは、聖霊の働きによって、キリストはもちろん、信徒同士もつながって、神さまの慈しみをいただいているということです。

教会は、そして私たちは、この聖徒の交わりを生きています。私たちはいつも、神さまの慈しみのなかにあります。神さまの慈しみは泉のようで、尽きることがありません。この慈しみは、①赦しの秘蹟では、罪の赦しとなって現れます。②「償いのための祈り」や「贖宥を得るための祈り(註)」においては、癒しやセラピの恵みとして現れます。そしてまた、神さまの慈しみは「Indulgence(特別な恵み)」となって、罪が許されたあとの癒し、傷を回復させるための力となります。神さまの慈しみは、いつでもわたしたちのなかにある恵みなのです。これまでは、この恵み=「贖宥」は、なにかを我慢して罰を軽くしてもらうこと、お金を払うことでたやすく手に入れることができるかのように誤解されていたかもしれません。そうではないのです。

これまでは「贖宥」といえば、「懲罰」や「対価」としての意味合いが強調されてきました。しかし、教皇フランシスコは、「贖宥」は特別な恵み(癒しとセラピの恵み)だと考えます。フランシスコは「贖宥」を神さまから受ける慈しみとしてとらえて、解釈しなおしています。よくあるように、罪を犯し罰を受ける人がなにかをすることで罰の軽減を求めるとか、お金で解決できるものとしてとらえてはいません。そうではないのです。

フランシスコのいう「贖宥」とは、あくまで祈りを通じた信徒の交わりであり、神さまが与えてくれる癒しのコミュニケーションです。神さまの憐みはいつも私たちのあいだにあるのです。神さまは裁判官ではありません。むしろ、私たちをいやすお医者さまだということができるでしょう。癒しによる心の回復を、神さまは私たちに与えてくださるのです。聖年において「特別な恵み」のなかに生きることで、父なる神の慈しみに近づくことができ、神さまの慈しみが私たちの信仰生活全体に行き渡るのだと意識してみましょう。私たちは常に「贖宥」=特別の恵みを受けているのです。」(『慈しみの顔』22番、意訳』)

(註)「贖宥 indulgentia、 indulgenceは、すでに赦された罪に伴う有限な苦しの免除「免償」とも言う。古代教会では、罪を告白する信者に、長期の償いが課せられていた。その償いが教会の権威によって軽減免除されたのが、贖宥の始まりである。
やがて個人告白の慣習が広がり、罪の軽重に従って様々な償いが課せられたが、巡礼・祈り・善幸などで償いが全面的ないし部分的に免除されることが定められていった。このように贖宥は告白の秘跡にともなって生まれたが、中世以降、信心業などをもって、自分ないし他者、特に『煉獄で罪の清めを受けている死者の罰を軽減することと理解されるようになっていった。償いの免除が罪のゆるしそのものと混同されたり、迷信的様相も見られたため、特二宗教改革においてルターから批判された。トリエント公会議は教令をもって贖宥の正当性を主張し、近世以降もカトリック教会では、自他のため、特に死者のために贖宥を得ることは信心業として大切にされてきた。
贖宥の本質的意義は、教会は一体であり、互いのために祈り支え合うことができるということにある。現代の贖宥の公式見解は、教皇パウロ6世の使徒的憲章「免償の教理」(1967)に見られる。岩波キリスト教事典より」