教皇フランシスコ著『愛の悦び』Amoris laetitia 8章  296・303

296. 司教たちはいくつかの異なった弱さや不完全性〔不完全な心の持ち方や信仰生活のあり方〕の状況について言及した。これに関して道を誤らないように別な機械に教会に私は思い起こさせた次の点を明らかにしておきたい。
〔端的に言えば〕、“教会の歴史を振り返ると、いつの時代おいても二種類の考え方が見られる…一つは人を排除するもので、今一つは排除された人々を迎え入れなおすのである… エルサレム公会議以来、教会の道はいつもイエスの道であり、慈悲をかけることと人を排除しないことである… 教会の道と言えば、だれも取り消しがつかない形で断罪しないことである…神の慈悲を誠実な心で求めるすべての人に神の慈しみを注ぐことは教会の道である…真実の慈愛は無償で、無条件で、誰もそれを与えられるに値しない者である…”したがって「諸状況の複雑さを考慮に入れた上で、)〔裁きの〕判断を避け、自分が背負っている条件の為の痛みをもって生きている人々に関心をむけたいのである」。〔言い換えれば、司牧者たちは教えをはっきりと伝えながら人々がおかれている種々の複雑な状況を考慮に入れないような判断を下すことを避けるべきであり、司牧者たちは人の生活の仕方と人が背負っている条件の為に苦しまれていることによく目を向ける必要があるということである〕。.
297. 誰も排除してはいけない。どの人でも教会共同体のなかで、自分にふさわしい参加に仕方を見いだすように手伝わなければならない。どの人でも無償で、無条件で、自分がそれをいただくに値しない慈悲の対象であることを感じるように手伝わなければならない。だれも取り消しがつかない形で断罪されるべきではない。そんな断罪は福音の論理に合わない。私はこのことを断言するとき離婚してから再婚した人びとについて話しているだけではない。この断言はどんな状況におかれている人についても当てはまるのである。
〔もちろん、人が教会共同体と縁ようなを切る次のような場合、注意しなければならない〕。人が教会共同体から自分を離させることは起こりうる。例えば、ある人は客観的に罪と言えることはキリスト者の理想であるかのように示し、それを誇りにさえしていれば、当然その人に教会で教鞭をとるまた公共要理をを教える〔責任を〕ことを認めるわけにはいかないであろう。 (マタイ18,17参照)。その場合。その人に福音の告知を聞かせ、回心へと招かなければならないであろう。しかしその人の為にも共同体の生活に参加する方法がありうるはずである。たとえば、社会活動や祈りの会やその人と司牧者の識別によって見出されるその他の方法があろう。
合法的でない状況をどのように扱うかによって司教たちは次の合意を得たが、私はそれを支持する。「民法による結婚をしている人々、離婚した人々と再婚した人々への司牧的なアプローチについては、教会の役割は、彼らの生活の中における、神の恵みの導きを明らかに示すこと、また彼らのための神の計画の完成に、彼らが到達できるよう助けることにある」。このことは聖霊の恩恵によっていつも可能である。
298.離婚してから再婚した人々は随分異なった状況に置かれていることがありうる。これらの状況はわりきって決まったカテゴリ―に分類されないし、個人的識別と司牧的識別のために余地を残さないような型に嵌った断言で表せない。時間がたって確率された再婚で、夫婦同志の忠実が確認され、新しいいのちも生み出し、互いに与え合い、信者としてしっかりしている人々で、自分たちの身分が合法的であると知りながらも後戻りすればもう一つの誤りを犯すことになる場合がある。「子どもを養育していくために再婚した人」に別れさせるわけにはいかないことを教会は承知している。「最初の結婚を貫こうと真心誠意努力したにもかかわらず、不当に放棄された人々」もいれば、「子どもを養育していくために再婚した人」で、場合によっては「やり直しの聞かないほど破壊してしまった前の結婚は最初から有効ではなかったと自分の良心において主観的に革新している人々がいる」。これとは違うような場合もある。例えば、最近離婚したばかりで、こどもやそれぞれの家族に苦しみと混乱をもたらした人やしばしば自分の家族に対する義務を怠った人はそうである。これは結婚と家族の為に福音に基づいた理想ではないことをあきらかにしておかなければならない。司教たちが述べたとおり、司牧者が識別するとき、それを「状況をふさわしくわきまえなければならない」。そして「聖ヨハネ・パウロが勧めたように、それぞれの異なった事情に配慮したまなざしが必要となる」。教皇ベネディクト16世が言ったように、「簡単な処方箋がないことを私たちがよく知っておる」。
299,離婚してから民法上再婚した受洗者について司教たちがした提言をわたしは受け入れる。その人々は、スキャンダルを避けて、可能な限りのいろいろな形でキリスト教コミュニティにより完全に溶け込む必要がある。誰も排除しない〈logic of integration包容力の理法・迎えいれることの道理〉はこの人々の司牧的同伴の為のカギである。彼らはキリストの体である教会に属していることを知るだけではなく、幸福にして実を結ぶ経験を持つことができるように。彼らは受洗者であり、兄弟姉妹であり、教会全体のためになる賜物を聖霊は彼らの上に注ぐ。彼らの参加の仕方は多くの形式を帯びることができる。そこで現在行われている種々の排除の形式 (典礼、司牧、教育など)について検討し、どのようにそれら〔の制限を〕なくすことができるかについて考えなければならない。彼らは破門されていると感じてはいけない。彼らは教会の生けるメンバーとして成熟していくこともできるし、教会はいつも親の心をもって彼らを世話し、人生の道と福音の道を歩むようはげますのである、このように彼らが排除されないことはその子供たちの育ちと子どもの信仰教育において重要視されなければならない。」
300. 前述した具体的な状況の多様な種類を我々が考慮するならば、Synodusまたは本勧告からすべてのケースに当てはまる教会法上の一般的な規則の新しいセットを提供することを期待できないことがあきらかであろう。
可能なことは特定のケースの確実な個人的にして司牧的な識別を責任をもって行われるようにはげますことだけである。
「責任の程度が、すべてのケースにおいて等しいというわけではあない」、規則の結果または影響が必ずしもすべてのケースにおいても同じではないはずである
「教会の教えと司教の導きにしたがって識別の道を歩んでいる人を同伴するのは司祭の役割である。この過程において反省と痛悔の契機を含む良心の究明をすることは役に立つであろう。離婚してから再婚した人は夫婦関係が悪くなり始めたときからどのように子どもに対してふるまったかと自分に問いかけ、夫婦の間の和解を試みたか、放棄された配偶者はどの状況におかれているか、新しい配偶者との関係からどのような影響が家族の他のメンバーや教会共同体に及ぼされるのか、結婚準備している青年たちにとってどのような模範をみせているのか…などについて反省しなければならないであろう。正直に反省すればだれにも拒まれない神のいつくしみへの信頼が強められる。
ここで勧めているのは、「神の前に彼らの状況の誠実な認識に導く」識別の同伴を通して、〔教会共同体の典礼秘跡への十全たる参加の仕方の可能性を妨げていr〕自分たちの条件について神の御前に反省することである。内的法廷・良心の法廷の場で司祭との会はを通して教会生活への彼らの参加をを妨げるk条件について正しい判断に至ることができよう。
ただFamiliaris consortio 34で言われているように、「漸進性の法〈一歩一歩段階的に成長していくこと〉を抱の漸進性と同一視して間違えてはならない。〔…異なった個人や状況に対応して、法の命令にも異なった段階があるかのように考えることができないということを念頭において〕、前述した識別は教会によって提供されている福音の真理と愛の要請をみのがすわけにはいかない。その為にそういった識別に伴うべき条件をよく念頭に置いておきたい。つまり、謙遜、懸命さ、教会とその教えに対する愛、神のみ旨を誠実に求めること、神の呼びかけにより完全に答える望みはその条件である。
この識別のことを誤解されれば、教会が二重基準の倫理を支持していると思われてしまうことが懸念されようが、識別の過程をともに歩む信徒と司牧者両車とも責任をもってその識別を行う場合、その危険性がないだろう。司牧者も相談に来る信徒も識別の正しいあり方を守るべきである。つまり、信徒は教会の共通善を自分の個人の望みよりも大切にし、司牧者は扱っている問題の重大さを申告に受け留ななければならない。