教皇フランシスコ『愛の喜び』 8章  301−303 司牧上の識

教皇フランシスコ『愛の喜び』 8章  301−303 司牧上の識別


司牧上の識別における情状配慮

301. 変則と呼ばれている状況において特に識別は可能であり、必要でもある。このことを正しく理解するためいつも念頭においておかなければならない問題がある。つまり、福音からの要請を軽減してもよいと思ってはならない。教会〔の伝統における倫理の考え方〕には情状配慮および〔判断と自由な決断の〕制約に関してしっかりした考察が展開されてきた。

〔そうしたカトリック倫理の伝統にもとづいて次のことが言える〕。つまり、 変則と呼ばれている状況におかれているすべての者に関しては人を大罪の状態にあるとはもはや言えない。人はときに規範の認識をもたないこともあるし、または規範をよく知ってはいてもその規範〔の背後にある重要な〕価値を把握することは困難なこともある。または人が具体的な条件にしばられることもある。なお、もう一つの過ちに陥ることを避けるため、特定の決断をすることができないときもある。司教たちが指摘したとおり、「決断力を制限する要素がある」。トマス・アクイナスが認めていたように、「恩恵をそなわってはいても、徳の実践をよくできないことがある。 還元すれば、 すべての徳をそなわっている人でも、それをあらわすことができないことがあり、その実践が困難になっているのである」。

302. 〔責任がとれる自由な決断〕を制限づける条件についてカトリック教会のカテキズムはこう言う、「行為の責任性は、無知、不注意、暴力、恐れ、習慣、過激な感情、またその他の心理的ないし社会的要因によって感じられることがありうる」。他のところではカテキズムは責任を軽減させる状況についてふれ、詳しく次の条件を挙げている、「感情的な未成熟さ、身に着けた習慣の力、不安の状況、あるいは他の精神的・社会的要因などを考慮しなければならない。これらの要因によって倫理的罪責が軽くなったり、最小限に感じたりすることもある」。 
 
 それがゆえに、特定の客観的な状況に関する否定的な評価はかならずしも各当の人の責任性に関する判断とつながらない。 これらの条件を念頭においてわたしは司教たちとの次の判断に同意する。「ある状況に制約された場合人は今とろうとしている行動とは違うようなのを選ぶことはむずかしい。司牧上の識別において正しく養成された良心を考慮に入れながら、これらの状況を深刻に受け止めなければならない。人がとる行動の結果さえもすべてのケースにおいてかならずしも同じではないのである。

303. このような具体的な制約の重みを認めた上で、前述した人々や家族に対する教会の扱い方を見直したい。客観的に見て私たちの結婚観に合致しないいくつかの事実上の状況を取り上げるとき人の良心がはたす役割の重要さを考慮に入れなければならない。

確かに司牧者の真剣で責任のある識別によって同伴され、養成され、照らされる良心の成熟を促進しなければならないし、恩恵に対する信頼も養わなければならないのであるが、しかし良心の役割は単に特定の状況が客観的に見て福音の要請に合わないことを認識するに終わるものではない。

良心は、現状況の限界の中で神に答えるためには、自分にできる寛大な応答を誠実に認めることもできる。そしてその答えは客観的な理想にまだ十分に合致しないにしても、具体的な限界の複雑さの中で神が求めていることであることを十分な確信をもって見いだすことができる。ただこの識別は発展的であり、新しい成長段階に開かれていなければならないことを忘れてはならない。なお、識別は理想をより十全に実現できるように開かれていなければならない。