教皇フランシスコ回勅『ラウダート シ、主に賛美、Laudato si’』つづく 233−237

VI。秘跡的な徴と安息日の祝い
 

233.
宇宙はすべてをみたす神のうちに展開されます。それゆえに、神秘的な意味が一枚の葉においても、道端においても、露においても、貧しい人の顔においても見出すことができます。理想は神の働きを魂の中で発見するために外部野世界から内面へ眼を向けることだけでなく、すべてにおいて神を発見することです。ボナベンツラが言うように、「高度な観想において人は自分のうちに神の恵みの影響を感じ、または外部のすべての被造物において神をみいだすのです」。


234.
この世界の現実と経験において出席しているすべての長所が「著しく神のうちにの形でみいだされ、これらの崇高な現実の各々で、神である」ことを、サン・ファン・デ・ラ・クルスは教えました。 この世界の有限なものが神聖であるのででなく、神秘主義者が神とすべての存在間の親密な接続を経験し、このように「すべてのものは、神です」ということを神秘家が感じるのです。 山の偉大さを見れば、それを神から切り離してとらえられません。感嘆する体験は神とむすびつきます。「山は高くて、豊かで、広くて、美しくて、華と香をもっています。これらの山こそわが愛する方。静かな谷、涼しい小川、林、鳥の歌などはすべてわが愛する方。


235.
秘跡においては、特に自然が神から受け入れられ、超自然的な生命の媒介となります。礼拝において我々は別な形で世界を抱きます。水、油,火、色などは象徴的な力をもって神をたたえます。祝福を与える手は神の愛の道具です。その手はイエス・キリストの近づきやすいこと感じさせます。イエスは我々と共に生活の道を歩みます。洗礼の時子供の上に注がれる水は新しい命の象徴です。神と出会うために自然や世界を否定する必要がありません。キリスト教東方教会において特にこの精神性が感じられます。「神の調和と人類の変容は美という神の名によってあらわされます。その美はどこでも表現されます。例えば、神殿の建築や聖歌野音楽や色、香り、光などにおいてです」。  キリスト教の体験にとっては物質世界のすべての被造物は人となった神においてその意味を見出します。なぜかと言えば、神の子は自分のペルソナにおいて物質世界を受け入れているからです。その世界の中に神は決定的な変容の種を蒔いたのです。「キリスト教は物質を否定せずに、体を否定しません。それどころか体を評価し、典礼の行いにおいて体を大切にします。人体は聖霊の神殿です。人間の体は世界を救うために人となったキリストと一致します」。


236
つくられたすべてのものがその高揚を見つけるのは、聖体祭儀においてです。感覚を通して現れる神の恵みはその最高の表現を示すのは人となった神自身が人のための食べ物となるときです。神が人となり、自分野被造物のため食物となり、自分自身を与えています。主は、ご托身の神秘の最高点で、物質の断片を通して我々と密接に一致することを選びました。神は上から来るわけではなく、内部からです。それは我々の世界の中で神を見出すことができるようにするためです。聖体祭儀では、宇宙の充満はすでに達成されています。ご聖体に現存する人となった神の子と一致して宇宙全体は神に感謝します。事実ご聖体は宇宙的な愛の行為です。「宇宙的」とあえて言います。田舎の小さな教会の祭壇の上で行われた時も、それは世界という祭壇の上で行われているのです。166 ご聖体において天と地が一つになります。神の手から出た世界は礼拝を通して神に帰依します。ご聖体において被造界は神聖化され、聖なる婚姻、創造主との一致に向かいます。ご聖体は光の泉であり、自然環境への我々のケアーを照らし、被造物を世話するようにまねきます。


237.
日曜日に聖体祭儀への我々の参加は、特別な重要性を持ちます。きりすと強の日曜日と強の安息日は、神と一緒の関係、自分自身との関係、他の人との関係、そして、世界との我々の関係を癒やす日です。[キリスト者にとって]日曜日は、復活の日であり、新しい創造の最初の日であり、その初穂は復活した主の[栄光の]身体です。それこそすべての被造物の変容の保障です。さらに神は次のことを告げ知らせます。神のうちにおいて安らかに永遠に人間がやすむことができるということです。 このようにキリスト教霊性安息日と休みの価値を取り入れます。人間は自分が観想的な休みを必要としないで、実りのないものとして考えがちですが、そのような見方では人間が行う仕事の意味が消えてしまいます。人間の行為は単なる「商品を作る」ことだけではありません。人間が「する」ことにおいて「受けること」と「させられること」といった「無償性」と「受容性」の次元が含まれてはじめて「人間がする」ことの意味がわかります。人間の活動をむなしい活動主義から解き放す秘訣があります。そこに個人の利益しか求めない孤立した意識の無制限の欲望からの解放があります。安息日の律法によると七日の日に牛もロバも奴隷の子供も移民も休むようにと言われていました。安息日において他人の権利を認めるものの見方を取り戻します。聖体祭儀を中心にする日曜日はその前の一週間を照らし、これから私たちの日常生活において自然へのケアーと貧しい人へのケアーを取り入れるように動機づけます。