教皇フランシスコ回勅『ラウダート シ、主に賛美、Laudato si’』つづく、228−232)

V. 市民社会と政治共同体における愛

228.自然のケアは、ライフスタイルの一部です。このライフスタイルはすべての人とすべてのものと一致して共に生きることを可能にします。我々が共有している父なる神がいます。このことが我々を兄弟と姉妹にします。イエスは我々に思い出させたように、神は我々の父であり、我々皆が兄弟姉妹です。兄弟姉妹の愛は無償のものであり、決して人からしてもらったことに対する報いでもなければ、なにかを見返りを期待して人に与えられるものでもありません。そういうわけで、敵を愛することができます。この無償性の精神のため我々が制御できない風や太陽や雲などを愛することができます。一切との普遍的な愛の連帯性がもてます。


229.
我々は互いに他者を必要とするという信念を回復しなければなりません。我々が他の人および世界全体に対する責任を感じ、誠実に正しく活きる価値がある確信をもちたいです。我々は、長いあいだ道徳や善良さや信仰や政治などをばかにしてしまいましたが、そんな表面的な生き方は何の役にも立ちませんでした。そのように社会生活に基礎が崩れると、残酷さと暴力の新しい形式が現れ、自然環境の保護が妨げられます。


230.
Lisieuxのテレーズはちいさな愛の行為の道を実践するように教えてくれました。親切なひとことや微笑や平安と友愛の種を蒔くどんな小さな機会でも見逃さないようにしたいです。搾取と自分本位の論理と絶縁する単純な毎日の気遣いからでも総合的な生態学も成り立ちます。それとは逆に、大袈裟な消費主義の世界は同時に生命の諸形式を虐待することを引き起こします。


231. 相互世話の小さな気遣いに満ちた愛はまた市民社会と政治共同体の中で実践され、より良い世界を作ろうとする行動において表れます。「愛は、身近な関係(友人、家族、少集団)だけでなく、広半な関係(社会、経済、政治)にも影響を与える原理でもあります」。(156) そのため教会は「愛の文明を作ろう」という理想を世界に提言してきました。(157) 社会生活における愛は真の開発の秘訣でもあります。「社会をより人間的にし、人をより尊厳の有る者にし、社会生活をより人gんらしくするためには、社会生活における愛を再評価せねばなりません。このことは、政治的・経済的で・文化的なレべル – においてしましょう。愛はすべての活動の恒常的で最も高い標準になるように」。 この枠組み野うちに、日常野気遣いとともに、環境劣化を止め、社会の全てに浸透する「世話の文化」を励ましましょう。他の人と手を合わせて社会建設にかかわるように我々が神から呼ばれています。この呼びかけに答えて行くことは私たちの精神性・霊性野一部であり、愛徳野実践であり、われわれを成熟させ、聖化するのです。

232. 誰でも、直接に政治世界に係わるわけではありませんが、共通善を促進させ、自然環境と社会環境を擁護することに取り組む無数の組織や協会があります。たとえば、人は公的な場所(建物、噴水、捨てられた記念碑、景色など)に対する懸念を示し、誰でも所有している何かとしてそれを保護し、回復・改善させ、美しくするように努める者がいます。これらのコミュニティの活動のまわりで、関係は発展し、回復し、新しく地域レベルでの人間関係を結びつけるネットができます。このように、一つのコミュニティは、消費者主義によって誘発される無関心から抜け出すことができます。このような社会づくりにおいては共有できる歴史が保たれ、アイデンティティが確認されます。このように、世界が世話され、貧しい人の連帯性が養われ、神から借りた共通な家に住んでいる意識が高まり、記憶されていることができて、伝えられることができる物語で、これらの共同体の行動は、自己を捧げる愛を現す霊的な体験をします。