教皇フランシスコ回勅『ラウダート シ、主に賛美、Laudato si’』(つづく、6章、222−227)


悦びと平安

222. キリスト教の精神性は生活の質を理解するためのもう一つの方法を提案します。それは予言的であると同時に神秘的・観想的であるライフスタイルですので、消費主義にこだわらないのです。[これに関して]聖書においても他の宗教伝統においても見られる大切な教えがあります。それは「「少ないほど豊か」[スペイン語で言うmenos es más,ドイツ語で言うweniger mehr ist]または日本語で言う「足るを知る」」という教えです。消費する可能性が増えすぎると、心が散って各々のものと各瞬間を大事にすることができなくなります。どんなに小さな現実ても、各々の現実の前に穏やかに存在することは我々の理解の視野をひろげ、自己実現をゆたかにします。キリスト教の精神性は、適度の成長の仕方と「少ないもの」・「ものを少なくもつこと」の良さを味わうように勧めます。立ち止まって、単純さに立ち戻り、小さなものを評価し、生命が我々に与える機会に感謝するとき、我々が不足するもののために悲しみに屈しないのです。そうすることによって 支配力と快楽への欲望を避けたいのです。

223.とらわれない意識で生きられるつつましさは我々を解放します。節度をもって日々を過ごすことは生活の質を下げさせるのではなく、かえってより充実した生き方とつながります。あっちこっちで不足の楽しみをつまむことにあわてないで、各瞬間を味わって生きる人は各々のものや出来事または物の価値を評価し、現実と接触することを学び、もっとも単純なことでも楽しむことができます。その生き方をしている者は欲求不満をへらし、執拗さと疲労を減らし、余計に疲れることなくすごすことができます。物を少なく必要としよく活きることができます。特にそれが言えるのは別な有意義な楽しみを見出すことができる場合です。たとえば、兄弟姉妹の出会い、人への奉仕、カリスマの発揮、音楽、芸術、自然との接触、祈りなどがあげられます。しあわせになるためには、われわれに麻酔をかけるニーズを制限し、人生が提供してくれる多くの可能性や機会を逃さないことが大切です。


224.
つつましさと謙遜は、前世紀において評価されませんでしたが、特定の長所・徳の行使は個人と社会一般においてゆるめられるとき、やがて環境も傷つけられることにもなりかねないのです。結局いくつかのアンバランス(環境のもを含む)を引き起こすことになります。そういうわけで、それは生態系のバランスについて話すだけでは十分ではなく、人生におけるバランスの欠如を取りあげ、人と人を互いに結び付ける重要な価値観をとりもどすようにあえて要請しなければなりません。謙遜を失って、すべてを無制限に支配する可能性で夢中に心を奪われるならば、社会と環境を害してしまうようになります。健全な謙遜または「たるを知る」つつましさを培うことは簡単ではありません。幸せな節度を勧めることは、簡単ではありません。なぜかといえば、われわれは全く自主に固執し、我々の生活から神を排斥して神を演じるとき、善悪の基準をさだめるのは我々の主観性の裁量にまかせるべきだと思い込んでしまうからです。


225.
他方、自分自身の内において心の平安がなければ、誰も、幸せにつつましい生活をつづけることができません。精神性について正しい理解を得るには、平和のとらえ方を広くしなければならないでしょう。平和は単に戦争の欠如ではありません。人びとの心の平安はエコロジーのケアーとも、共通善ととのつながりとも多いに関係があります。本物の心の平安は調和のあるライフスタイルを反映し、人生の深みの次元に接触させて感嘆する<能力を眼覚めさせます。大自然は愛の言葉で満たされていますが、一体我々にはそれに耳を傾ける能力が残っているのでしょうか。たえない雑音になやまされ、気が散って、どのようい自分が見えるかと言うことにとらわれすぎて何も聞こえないのではないでしょうか。多くの人は深い不安定で悩んでいます。何かから逃げているような感じで、周りの物をいわばひき逃げしては走り続ける者がいます。総合的まエコロジーは創造との落ち着いた調和を取り戻し、自分のライフスタイルおよび我々の理想について考察する余裕をもっています。それがゆえに、我々の内におられ、我々の周りにもおられる創造主を観想します。なおその現存は造り出されるものではなく、発見され、悟られるわけです。(155)


226
このように強調したいのは現在の各瞬間を大切いして生きる心の態度です。この態度では穏やかな注意深さですべてのものに接近したいです。今、一緒にいる人の話しに聴き入るとき、その後で何をする予定になっているかを考えたくありません。その時にその時のことを味わいたいです。各瞬間を十分に人生を送られる神からの贈り物と認めます。野の花と空の鳥を見つめながらイエスはこの態度を我々に教えました。また金持ちの青年に会って、彼の落ち着きのなさを知り、愛情をもって彼を見つめた時もそうでした。イエスは誰に対しても、どのものに対しても、その態度で向き合うことができました。このように、イエスは我々に我々を表面的で、攻撃的で、衝動的な消費者にするその不健康な不安を克服する方法を見せてくださいました。


227.
この態度のひとつの表現は、我々が立ち止まって、食事の前後に神に感謝を捧げる時です。私は、すべての信者にこの美しくて意味がある習慣に戻るように勧めたいです。どんなに簡単であろうとも、天の恵みのその瞬間は終身我々に神に対する我々の依存を思い出させ、我々の感謝の念を強化し、その食べ物をわれわれに与えた者の仕事を認めさせ、貧しい人びととの連帯性を強めます。