教皇フランシスコ回勅『ラウダート シ、主に賛美、Laudato si'』J.マシア訳 (意訳・解釈)、続く204−208 

教皇フランシスコ回勅『ラウダート シ、主に賛美、Laudato si'』J.マシア訳 (意訳・解釈)、続く202-208 


第6章

生態学的な教育および精神性[霊性]Educación y espiritualidad ecológica

202. 多くの[分野で行われている]ことにおいて軌道修正して方向付けを変える必要があるのですが、なによりも、人類[が歩んでいる道の方向付け]を変え、[人類が自分自身を]変革しなければなりません。人類が共通な起源から由来することを我々は自覚しなければなりません。我々は互いに結ばれているという帰属感を持ち、共通な未来を共有して[未来に向かって]歩みたいです。こうした基本的な意識[認識]があれば、新しい信念、新しい態度と新しい生命形態・様式の開発が可能となるでしょう。そこで我々は大きな挑戦課題・に直面しています。この優先課題と取り組むためには刷新・再生の長い通り道を辿る必要があるに違いありません。

I. 新たにもう一つのライフスタイルを選択しましょう

203. 市場は生産物の販売を保障するために拒否しにくい消費本能を刺激する仕掛けを作り出す傾向があります。人びとは不必要な購入品と経費のめまぐるしさに流されます。「技術万能と経済優先のパラダイム(考え方・生き方)」(paradigma tecnoeconómico)は消費へのこだわり(consumismo obsesivo)を生み出します。[社会通念になっているその考え方の]パラダイムは各個人の生き方に影響を与え、消費主義的な願望は集団的な通念の主観的な反映であると言えましょう。Romano Guardiniは指摘したとおり、「人間は合理的な計画と機械的な生産の仕方で作り上げられた商品や生活様式を押し付けられ、それを選ぶとき、一番理性的で正しいことだと思い込んでそれを受け入れるのです」。そのようなパラダイムの支配のもとで、消費する自由があるかぎり、皆自由であるつもりになります。しかし、実際に自由なのは少数の所有者だけであり、彼らは経済上・金銭上の権力を独占しているのです。こうした混乱の中で、[ポストモダーンと呼ばれるようになった]近代以後の人類は方向付けをもたらしてくれるあたらしい自己理解を見出さずに、アイデンティティの喪失のため不安にかられています。我々はかぎられた貧弱な目標のために多すぎる手段に富んでいるのです[訳注:手段として使える道具は多く発展したが、その道具を使って何を、何のために、どの意味で作りたいといった目標が欠如しております。これはいわゆる「道具的理性の悲劇です」]。グアルディニが批判していたように:「かぎられた貧弱な目標のために多すぎる手段」(viele Mittel für einige dürftige und magere Ziele)。


204. 現在の世界的な状況は「不安定性と不確実性の感覚を生みます。そして、それは集団的な利己主義を養います」(145) 。[他者との関係を無視して自己中心的(autorreferenciales)になり、自己のうちに閉じこもり、自分自身との関係しか考えないで生きる]人びとは、自己中心的になり、孤立した自己意識に引きこもるとき、欲求不満になりすぎがちです。人の心はむなしければむなしいほど、ますます商品を買い求め、所有し、消費したくなります。そうした状況・文脈を背景に、現実のほうから制限付けられるのを受け入れることは不可能に近いです。こうした視界を地平に、人は真の共通善への関心・感覚に目覚めないのです。そんな態度・姿勢で生きる者が主人公になる社会では、規範を提示しても、個人のニーズと相容れるかぎりにおいてしか守れなくなるでしょう。ですから、自然の「身体的な災害」より人間が引き起こす「人災」を恐れたいです。大変な気候変革や自然災害よりも、社会危機による「人災」の脅かしを恐れるべきでしょう。というのも、消費主義にこだわる生活様式は、特に少数だけその生活が送れる場合、暴力と相互破滅を引き起こすことにもなりかねないのです。

205. しかし[前述したことだけに焦点を合わせずに、希望へと励ましてくれる次のことも忘れたくなく]前述した現状があるにもかかわらず、すべてが失われたと考えてはいけないでしょう。人間は、最悪の事態の中からでも、立ち上がって自分をよい方向に向けさせ、自分自身に打ち勝つことができます。人間はもう一度善[に向かう道]を選ぶことができ、精神的または社会的な条件からの制限を乗り越え、自分自身をよい者にしていくことができます。自分自身の正直な目で見つめなおし、心からの不満を認め、本物の自由への新しい経路に乗り出すことができる[と確信しており]ます。我々の心の中にある真・善・美を求める傾き・開きは、どんな組織・制度的な権力でも全滅させることができません。[我々からその心の傾きを促す能力をどの社会組織でも奪うことができません]。どんな社会圧力でも我々の神から与えられたこの能力を押さえつけることができないでしょう。私は、世界中の人びとに我々人間に備わっているこの尊厳・威厳を忘れないように訴えたいと思います。誰もわれわれからこの能力を奪う権利をもっていません。

206. ライフスタイルにおける変化は、好ましい健全な圧力を政治的・経済的・社会的な権力を行使する人々にかけることができます。たとえば、消費者運動が特定の製品をボイコットするとき、まさにその成果が得られます。
これらの運動は企業のふるまい方を変えるために効果的であり、生産の基準とその環境への影響をみなおすように強いることができます。事実、社会の慣習が企業の収益に影響を及ぼすとき、企業は生産のパターン・方法を変えなければならなくなります。「購買は、単に経済的行為だけではなく、倫理上の行為です」。したがって「環境悪化の問題によってわれわれ各人の行動野仕方が問われている」と言わなければなりません。(147)。

207. 『地球国連憲章』は我々に自己破壊の時代を後にし、新しい出発点へと招きました。しかしわれわれはまだ十分にそれを可能にするための世界的・普遍的な意識を開発しているとは言えません。ここでは、私はもう一度あの『『地球国連憲章』の勇敢な挑戦課題と向き合いたいです。『国連憲法』で言われているように、「歴史の中でいまだかつてなかった共通な運命の意識は我々に新しい始めを捜すように呼びかけています… 我々の時代は命に対する新しい敬意を呼びさますときとして歴史に残るように…そして、持続可能な開発をを達成するためには堅い決意をもって、正義と平和の促進および生命のうれしい称賛のために努めましょう」。(148)

208我々は、常に他者を迎えるように自分自身から出ることができます。その能力を我々が行使しない限り、他の生きものがもち合せている彼らの特有の価値を認め、他の生き物を大切にし、それらのために何かをしてあげることも、また自分自身に制限を付けて環境の悪化や他の者の苦しみを避けることができないでしょう。孤立した引きこもりの意識と自己中心の傾向を乗り超える基本姿勢があってはじめて他者へのケアーと環境へのケアーが可能となり、自分のおのおのの行動と決断が引き起こす影響を考えると言った倫理上の反応が生じるのです。我々は、個人主義を乗り越えてはじめて「もうひっつの生活様式alternative life style」を展開し、重要な社会変革が可能となります。