教皇フランシスコ回勅『ラウダート シ、Laudato si',主に賛美』(マシア訳・意訳・訳注を含む)つづく、6章209-215,、

人類と環境世界との契約のための教育

209.文化的にして生態学的な危機の深刻さに関する意識は新しい生活様式の慣習を生み出すべきです。現代の進歩も現代の消費のための商品と快楽の山積も人間の心を満たし、人生に意味を与えることができないと言うことを多くの人が認めます。しかし市場が提供するものを 我々は放棄することができません。消費の仕方の慣習のためもっとも大きな変化を起こすべきと思われる国々において若者たちは環境問題に対する新しい感覚と寛大さをもっているし、その人びとは環境保護のため見事に努力してはいますが、彼らが育った社会は消費と福祉の高度な水準があり、別な慣習を培うことはむずかしいです。ここに我々は教育上の挑戦課題と向き合わなければなりません。

210.環境保護のための教育はその目標を徐々に広くし、高めてきました。始めに、環境での危険性に関する科学的な情報を提供し、意識昂揚と危険の防止に集中していたのに対して、現在、功利主義の思考法(個人主義、無制限の進展、競争、消費主義、無秩序な市場)に基づいているいわゆる「近代の神話」の批判を含む傾向があります。さらに、生態学的な均衡を人間の諸関わりの相において考えなければなりません。つまり、自分と自分自身との関わり、自分と他者との関わり、そして自分と神とのかかわりにおいてです。環境教育は我々を自然と他の生きものまたは神との調和を心の中で確立し、生態学的な平衡のいろいろなレベルを復活させようともします。環境教育は、生態学的な倫理にその最も深い意味を与える超越への道を整えなければなりません。[さいわいなことに]生態学倫理学を開発し、効果的な教育学を通して、人々が団結・連帯性、責任と共感的な世話において成長するのを手伝うことができる教育者がいます。

211. それでも、(「生態学的な市民意識」を創出することを目的とする)この教育は、情報を提供することに時々限られており、良い習慣を養うところまでいきません。施行の有効な手段が存在するときでも、法規と規範の存在は長い目で見れば、悪い実施を抑制するには不十分です。法律が重要な、長期にわたる影響をもたらすことであるならば、協会の大部分のメンバーは十分に彼らを受け入れることを希望しなければならなくて、反応するために個人的に変わらなければなりません。法的な規定が持続する重要な成果をもたらすためには、社会の多くのメンバ−がそれをよい動機づけで受け入れ、各自が人格的な変革をもって反応をする必要があります。しっかりした徳を培ってはじめて生態学的なかかわりにおいて自分自身を与えることができましょう。例えば、もしある人は多くの経費を使用し、多く消費することができたとしても、暖房を使わない代わりに温かい服を着ることを選ぶとすれば、その人は環境へのケアーについておそらくよい感覚を身につけているからでしょう。毎日の行動を通して創造の世話をすることは尊いことですし、教育がそのライフスタイルを形成するために動機づけを与えることができれば、すばらしいことでしょう。環境に対する責任を育てる教育は、環境へのケアーに直接に重要な影響を与える多くの行動を励ますことができます。たとえば、特定の商品を捨てない代わりに、すぐに何かのためにそれを再利用すること、水の使用を少なくすること、ゴミ捨ての使い分けをすること、合理的に消費される程度の食べ物を料理すること、他の生きている存在のケアを示すこと、公共輸送機関を使うこと、木を植えること、不必要な電気を消すことなどなどです。これらのことはすべて人間の一番よいところを生かす行動です。ある商品を使い捨てないで、リサイクルすることは深い動機づけで行われた場合、人間の尊厳を表す愛の行為でもありえます。

212. これらの努力が世界を変えるのは無理だと思ってはいけません。これらの行動は我々が確認できる以上のよい影響を社会に与えます。なぜかと言えばこの地上にときには目立たない収穫のある種が蒔かれるからです。なお、そのような行動は、われわれが自尊心の感覚を取り戻すようにさせ、より深く活きることもでき、この世での生には意味があることを体験させることもできます。

213. 生態学的な教育は、いろいろなセッティングで行われることができます。学校、家族、メディア、教会などです。我々が若いときに良い教育を受けると、その種は一生涯を通じて実を結び続けます。私は家族の大きな重要性を強調したいです。「家族は神の賜物である命が迎え入れらて、生まれてくるのです。です」 。 神のギフトであるいのちは家族の中で受け入れられ、多くの攻撃に対して相応しく守られます。家族の中で命は真の人間的な成長の要請にしたがって育ちます。いわゆる「死の文化・文明」に直面して、家族は「生命の文化・文明の核心です」(149) 。我々は家族の中で愛といのちのケアーを学び、物を正しく使うことも学びます。そして秩序と清潔、ローカル生態系に対する敬意、互いにつながっており、個人の成熟を形成する諸要素がそだちます。家族の中で相手を圧倒することなく感謝することを、いただくものの価値を評価するため『ありがとう』を言うこと、攻撃性や欲望を押さえ、すみませんをいうことを我々が学びます。これらの小さな親切の誠実な表現を通してわれわれはいのちを分かち合う文化をつくりあげ、我々を取り巻くもの、人と環境を尊重することをまなびます。

214. 政治機関といろいろな他の社会的グループも、人々の認識を上げるのを助けることが託されています。そしてまた、教会もそうです。すべてのキリスト者のコミュニティには、生態学的な教育のために、重要な役割があります。我々の神学校と養成の家で責任のある質素な生活が送られ、感謝と賛美をもって世界を見る観想が育てられ、自然環境も貧しい人もケアーする精神が育てられるのを期待します。賭けがとても高いので、我々は環境に課せられる損害に対する処罰を押しつけるために公的な権限を与えられる機関を必要としますが、それと同時に、自制の資質で互いに教育し合い、制御し合うことも必要とします。

215. こうした文脈を背景に、「良い美的な教育と好ましい環境の維持の関係は、見落してはいけません」。[150] 美しさを見て、評価することを学び、我々は利己的な実用主義を拒絶することも学びます。人が立ち止まって、美しい何かを賞賛することを学ばなかったならば、すべての物は使用価値しかないように扱われるのもふしぎではありません。深い変化をもたらしたいならば、我々は特定の思考法が我々のふるまいに本当に影響することと理解する必要があります。我々は人間、生命、社会と自然との我々の関係について新しい考え方をひろめなければ、教育への我々の努力は不十分で無駄でしょう。さもなければ、メディアと市場の非常に効果的な働きの助けを借りて、消費者主義の模範は、進み続けるでしょう。