教皇フランシスコ回勅『ラウダート シ、主に賛美、Laudato si'』(つづく、5章、163−165)

. 世代間の公正


159.
共通善の概念も、将来の世代に及びます。国際経済危機は我々の共通な運命を無視することの有害な影響を痛々しいほど明らかにしました。我々の後で来る人々を除外することができません。我々は、世代間の連帯性をぬきにして持続可能な発展についてもはや話すことができません。将来の世代の世界について考え始めるならば、我々は別な目でものを見ます。世界が我々が自由に受け取って、それを他と共有しなければならない贈り物であると、我々は理解します。そこにおいて、効率と生産性は我々の個々の利点に向けてまったく調整します。また、我々が受けた世界が我々の後を追う人々が所有している時から、正義の基本的な質問以外は、世代間の連帯性はオプションです。ポルトガルの司教は、我々に正義のこの義務を認めるように求めました。環境は、感受性の論理の一部です。それは各々の世代に借用です。そして、それを次に譲り渡さなければなりません」。総合的な生態学は、この広い展望によって特徴づけられます。


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.我々はどんな世界を後の世代お人に残したいでしょうか=人々へ出て欲しいですか?この問いかけは感興悪化野問題だけに関係しているのではありません。どんな世界を残したいかということについて尋ねるとき、我々は第一にその一般的な方向、その意味とその価値観について考えます。我々がこれらの問題と取り組まない限り、生態学に対する懸念が大したな結果を生まないでしょう。しかし、これらの問題と直面すれば、我々は容赦なく、他の鋭い質問をさせられます。この世での我々の人生の目的は、何ですか?我々は、なぜここにいますか?我々の仕事とすべての努力のゴールは、何ですか?地球を、我々は何のために必要としているのでしょうか?それから、単に我々が将来の世代を心配しなければならないと述べることは、もはや十分ではありません。我々は、危なくなっていることが我々自身の尊厳であると言うことに気が付くがあります。将来の世代に住むのに適した地上を残すことは、我々次第です。問題は劇的に我々に影響を及ぼすものです。なぜならば、それは我々のこの地上での旅の意味に疑問をなげかけるからです。


161.
終末予測は、皮肉または軽蔑で否定されることができません。我々は、来たるべき世代に破片、孤独と汚物を残して去ろうとしているようです。我々の現代のライフスタイルが大災害を促進します。そのままそのライフスタイルを維持できないにきまっています。現在野運バランスを直すのはわれわれしだいです。地上の能力を、消費、無駄と環境の変化のペースは、とても広げました。しかし、現在のアンバランスの影響は、我々の決定的な行動によって減らすことができるだけです。我々は、ひどい結果に耐えなければならない人々の前に我々の責任を考える必要があります。


162.
深刻にこの挑戦に応じることの我々の困難は、環境の悪化を伴った、倫理にして文化的な低下です。我々のポストモダニズム的な世界の人間は激烈な個人主義の危険性を冒します。そして、社会の多くの問題は即座の満足の今日の自己中心的な文化と関係があります。家族と社会的な結びつきの危機として他に認めることは難しいです。両親は衝動的で無駄な消費の傾向があることがありえます。そして、それは子供たちに影響を及ぼします。さらにまた、我々の現在の利益の範囲を広げて、発展から除外される人々を考慮に入れることが我々のできないことに、深刻に将来の世代について考えることができなくなります。「世代間の連帯性のより公正大な感覚に加えて、世代間の連帯性の新たな感覚の切迫した道徳的な必要もあります」。