教皇フランシスコ回勅『らうだーとシ、主に賛美、Laudato si'』(つづく、4章、147 -149 ,152 -154)。

エコロジーと日常生活


147.
真の開発は生活の品質に肝要な改善をもたらす努力を含みます。そのため、人が生活を送る場を考慮に入れなければなりません。これらのセッティングは、我々の考え方、感じ方、行動の仕方に影響を与えます。我々は、部屋、我家、職場と近所では、自分のアイデンティティを表す方法として環境を使います。我々は環境に適応するあらゆる努力をします。もし環境が無秩序であったり、混沌として雑音と見苦しさで過度の刺激が山積して混乱したりしていれば、幸せに生き、調和のとれたアイデンティティを作り上げることがむずかしくなるでしょう。


148
. ところで、よくない条件の中にいながらも、自分の生活を整え、環境世界からの圧力の負けずにしあわせに生きることを学ぶ者もいます。たとえば、一部で、建物の表が悪化している所に住みながら、自分の家の室内の大きなケアーを示す者もいるし、周りの人の親しみと親切に生き甲斐を感じ、外的なわるい状況をそれほど気にしない者もいるのです。健康的な社会生活は、一見好ましくない環境を照らすことができます。時々、賞賛に値する人間生態学は、多数の困難にもかかわらず貧しい者によって実践されます。
コミュニティが構築されるならば、一致と帰属感のネットワークの中で抱かれて、属していると感じる各々の人の内部で環境の規制が補償されるならば緊密で暖かい関係が発展することができ、どんな場所でも、尊厳のある生活がおくれるセッティングとなります。


149.
でも、次のことも事実です。調和が欠如している地域に感じられる極端な貧困は、残忍性の事件または犯罪組織による搾取につながることもあります。百万都市の不安定な近所では、過密状態と社会的匿名の毎日の経験は、反社会的行動と暴力を生む感覚を引き起こすことができます。それにもかかわらず、私は、愛が常により強力であると主張したいです。そのような悪い状況の中でも、帰属感と共存の絆をつくりあげ、それを通して、過密状態を自我の壁が取り壊されるコミュニティの経験に変え、自分本位のバリアを超える人がいます。この経験は、建物または地域共同体の改善についての創造的なアイデアをしばしば産み出します。



152
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国家の予算が要求の一部分だけをカバーするので、住宅の不足は、農村地帯で、そして、大都会で、世界の多くの地域で注目されます。貧しい者だけでなく、社会の大部分にとっても、家を所有することが難しいです。家を持つことは、個人の尊厳と家族の成長と関係があります。これは、人間生態学にとっての大きな問題です。間に合わせのスラム街が出現した所ですが、彼らをその地域から追い出すのではなく、その地域の生活条件をよくせねばならないのです。貧しい者が不衛生なスラムで、または、危険な家屋で生きるとき、「彼らを再配置することが必要である場合、苦しみを苦しみにどっさり与えないために、提供される適切な住宅の選択で、十分な情報は前もって伝えられる必要があります。そして、直接関係する人々はプロセスの一部であるにちがいありません」。これと同時に、創造力は、荒廃地区を歓迎する都市に融和させる際に示されなければなりません。「不信を麻痺させることを克服して、異なる人々を集積して、このまさしく統合に発展の新しい要因を作るそれらの都市は、なんと美しいですよ!彼らの構造上のデザインでさえ、他の認知をつないで、関連させて、支持するスペースでいっぱいであるそれらの都市はなんと魅力的ですよ!」。


154.
人間としての我々の尊厳に対する敬意は、人々が都市生活で耐えなければならない混沌とした現実と、しばしば対照的です。それでも、権利またはより威厳のある生命の希望なしでさえ、重要なサービスの利用が欠如しており、一部の労働者が奴隷状態の状況になる若干の地方の人口が見捨てられている状況も見落させてはいけません。