教皇フランシスコ回勅『ラウダート・シ、Laudato si'、主に賛美』(続く、3章115 〜121)

近代の人間中心主義の危機をのりこえて、自然観・人間観・神観の統合

115.近代の人間中心主義は、逆説的にも、結局現実よりも技術的な理性を重んじることになりました。Guardiniが言うように、「人間はもはや妥当な規範として自然を感じとっていないし、自然のふところを生ける避難所だとも考えていません」。

人間は[自然の起源に関して]仮説を立てることなどをせずに、ただたんに〔利益を受けるための〕課題の対象と場としてしか自然をみなしておらず、その課題・仕事と取り組めばどんな〔予想外の〕結果が起こるかがかまわないようです」。

このように世界がそれ自体において備わっている価値が評価されなくなるのです。しかし人間は自分自身の世界の中での位置づけを再発見しないかぎり、自己を理解することができなくなり、自分の存在と矛盾する〔生き方をする〕ことになってしまいます。地球・自然環境は神から人間に与えられた賜物であり、人間は神の意図に従ってその自然の善さを尊重しなければなりません。

さらに、神から人間に与えられたのは自然だけではなく、人間自身です。人間自身は自分にとって神からの賜物です。したがって人間は自分に備わっている自然の心身の構造を大切にしなければなりません。

116. 近代において極端な人間中心主義がありました。現代においても、別な外観で、その見方は人間と自然に関する理解をそこない、社会的なつながりを弱めてしまっております。今もう一度、現実をよく見つめる時がきました。そして現実から要請される制限も認めなければならないでしょう。そのようにして初めて人間と社会のより健全で、より実り豊かな開発が可能となるでしょう。

キリスト教人間観に関する一面的な捉え方のため人間と世界との関係についてしばしば伝えられた見方は世界に対する支配のプロメテウス的な支配と奢りのような人間観でした。ときには自然の保護が気の弱い者が考えることだという先入観さえも伝わってしまいました。しかし「宇宙を司る」者としての人間を正しくとらえるには彼を責任のある管理人者として理解しなければなりません。

117. 自然の害を計らずに、我々の決定がもたらす環境の悪化を無視することは自然の構造に内在するメッセージに対する無関心から由来します。

いくつかの例だけあげておきましょう。貧しい人や胎児やしょう害をかかえている一人の人間にそなわっている価値という現実を認めることができなければ、なおさら保護を求める自然の叫びを聞く耳がないでしょう。

すべてのものは互いにつながっています。人間が現実からの独立を宣言して、絶対の支配権でふるまうならば、神が創造の仕事に与る協力者としての人間の役割を遂行する代わりに、人は神の代わりに自分自身を立て、自然の側の反乱を引き起こすことになります。そのときまさに我々の人生の基礎は崩壊し始めます。

118.この状況から精神分裂的な反応が常に生じ、両極端な反応が生じます。技術優先の権力を発揮する人間は、人間以外の存在者の特有な価値を認めないし、逆の極端に陥る場合には、人間存在の特徴を否定してしまうことにもなりかねないのです。

しかしわれわれは人間性を見つめないわけにはいきません。新しい人間なしに新しい自然との関係も成立しなでしょう。相応しい人間学なしには生態学もなり立たないのです。人間は他の存在者と並べられるものにすぎないかのようなものとしてとらえられ、偶然や物理的な決定論によるものだとみなされてしまう場合、われわれの責任の意識が弱まる恐れがあります。

誤った人間中心主義への反応は極端な生物中心主義への移行を招くべきではありません。極端から極端へかわることが問題を解決するどころか問題を大きくします。人間が世界をケアーするように要請するためには、まず人間にその独特な特徴である認識、意志、自由と責任を認めなければならないのです。

119.誤った人間中心主義を批判するからと言って人間同士の関係の価値を第二義的なものとしてみるわけにはいかないのです。生態学的な危機は近代の文化上・精神上・倫理上の危機の現れだとすれば、人間同士の基本的な関係を癒すことなく、われわれと自然環境との関係もいやすことができないでしょう。

キリスト教思想が他の被造物より人間の独特の価値を認めるとき、おのおのの人間の評価を可能にし、他者を認めさせるのです。認識し、愛し、対話することができ、「汝なる者」と「われと汝」のかかわり方でつながることに開かれていることこそが「人間の尊さ」です。

したがって被造界との相応しい関係を保ちたいからと言って、人間の社会的な次元と超越的な次元人格としての「汝なる神」との関係を低評価するわけにはいきません。我々の自然環境との関係は、他の人間および神との関係から切り離してとらえられないのです。生態学的な美を装う一種のロマン主義的とでも言える個人主義と内在主義的な個人主義に陥って窒息したくはりません。

120. すべてのものが相互に関係づけられていることを理解していれば、自然の保護に対する懸念は妊娠中絶の正当化とも相容れないことがわかるでしょう。その存在が不快で、困難をつくるときであっても、人間の胎児を保護することができないならば、我々は他の弱い存在に対するケアーの重要性を教える教育できないでしょう。新しい生命を受け入れるための個人的な感覚と社会的な用意が失われるならば、社会のためにも貴重であるその他の形での包容性も衰えるでしょう。

121. 要するに、我々はここ数世紀における誤った両極端の二者択一の議論を乗り越えて新しい総合的な思考を開発する必要があります。イエス・キリストから受け取った真実のアイデンティティと真理の豊かな遺産を保ちながら、新しい歴史的状況と対話して我々はキリスト教を再考し、再表現することによってその新鮮な再生を輝かしたいです。