教皇フランシスコ回勅『ラウダート シ、主に賛美、Laudato si'』(続く、122ー123)。

実際の相対主義への懸念

122. 偏った人間中心主義は、偏ったライフ・スタイルとつながります。使徒的勧告『福音の喜び』に、我々の時代に特有の実際的な〔事実上、実生活の〕相対主義が「教義上の相対主義より危険なものでさえある」と私は注意しました。人間は中心に自分自身を置くとき、即座の便宜を絶対に優先し、他のすべてのことは相対的になります。

それゆえに技術万能のパラダイム[考え方と生き方]の主張と人間の無制限の権力が拝まれてしまう場合、目先の自己利益のためにならないものはすべて無意味になるといった相対主義が育つのもふしぎではありません。このような利害関係中心の態度は、相対主義の論理によって環境劣化を促進させると同時に社会的腐敗に至る態度と互いに支え合うのです。

123. 相対主義[風潮]の文化は人が人を利用価値しかない者として扱うのと同じ病理であり、他者を単なる物とみなし、人は人に強制労働を強要したり、負債を払わせるために人を奴隷にしたりします。同じ論理で子供たちの性的搾取が行われ、役に立たないと思われる年寄が見捨てられます。同じ論理を使って次のように言う人がいます。

「市場の見えない手が経済を制御するに任せましょう。社会と自然に響くそれらの影響による害は避けられないものです」。我々自身の欲求と差し迫ったニーズの満足感以外の客観的な真理としっかりした原理がない場合、人身売買、組織犯罪、麻薬取引、「血まみれ」のダイヤモンドの商業と絶滅の危機にある「動物の種の毛・皮」の商売などにどんな限度・制限を付けることができましょうか?

同じ相対主義の論理で正当化されてしまうことがあります。たとえば、貧しい人から臓器を買い、移植のためか研究のためそれを売ることとか、親の好みに合わないからと言って子供を捨てることなどはそうです。または使い捨ての論理で必要としないものを消費したり使い捨てたりすることがあります。

これらの問題に対応するためには政治の企画や法律の力が足りないでしょう。文化が腐敗し、人びとが客観的な真理や普遍的な原則を認めない場合、法的な規定は単なる押し付けや障害としてしか受け止められないでしょう。