教皇フランシスコ回勅『ラウダート シ、主に賛美、Laudato si'』(つづく、3章110番〜112番)

技術支配のパラダイムよりも広い視野に立って現実をみよ!


110. テクノロジーに特有な専門化は、より大きな全体を見る広い視野を持つことをこ難しくします。知識の細分化は具体的な適応のために役に立つことがわかりますが、それは全体的にものを捉えること、物事の相互関係を把握すること、つまり広い視野をもつことを怠らせ、その意味を見失わせるのです。まさにこの事実は、今日の世界の大きな問題、特に環境問題と貧しい者の問題を解決するための十分な方法を見つけることをは難しくします。

これらの問題は、一つの視点からだけ、または、一つの利害関係の視点からだけ扱われることができないのです。重大な問題に解決を提供しようとしたい学問は、知識の他の分野において得られたデータ(例えば、哲学と社会倫理のそれ)を考慮に入れなければなりません。しかし、この研究の仕方を育てることは、今日、難しいです。そのために倫理上の真の視野の広い枠組みでものを考えることも難しいわけです。

生活は技術によって条件づけられた状況にゆだねられてしまいがちです。技術は実存を解釈するための唯一の手段になってしまいます。しかしわれわれに問いかける具体的なこの過ちの兆候を伺うことができましょう。環境悪化や不安や生の意味や人ととも生きる意味の喪失はそれを表しています。あらためて、我々は、「現実は、考えより重要である」ことに気づかされます[91]。

111. 生態学的な文化は、汚染、環境腐敗と天然資源の枯渇の差し迫った問題への一連の緊急で部分的な反応に終わることができません。新しいものの見方、考え方、政策の有り方、教育プログラム、新しいライフスタイルと精神性をもって技術優先のパラダイムの支配的な前進に対して抵抗できるほどのものでなければなりません。

さもなければ、最高の生態学的なイニシアティブさえ、グロバリセーショんの虜になってしまうことにもなりかねないのです。生じてくる各々の環境問題に対して技術的な解決だけを求めることは、相互関係にあるものを切り離してしまい、世界的な規模の問題の真の根幹を隠すことになります。

112.しかし視野を広げることができましょう。人間の自由は技術に制限を加え、方向づけ、より健全で、より社会的にしてより総合的である開発のためになるようにさせることができます。技術支配一辺倒のパラダイムからの解放が行われるときがあります。たとえば、ある小規模の生産者の共同体が公害をもたらさない生産の法方を選ぶときはその一例です。彼らは消耗主義中心ではない生活も選ぶと共に楽しく有意義に生きることを選びました。

もう一例は、技術を人の具体的な問題を解決するために向けられるときであり、他者のために生きること、助け合って生きようとし、苦しみを少なくし、互いの尊厳を高め合うときはその一例でしょう。もう一例は物事を利用する対象としてではなく、観想の対象にすることとして扱う創造的な美を志すときでしょう。そのとき美と美を観想する者において一種の救いの出来事が実現すると言えましょう。

技術的文明の中にあっても新しい総合へとわれわれを招く真人間性が宿っているようですが、その姿はしまったドアの下から照らし込んでくる霧のような薄いものです。そこにいろいろな問題があるにもかかわらず、絶えず希望をもたらすものがあり、それを消そうとするものに対して抵抗する本物が湧いてくるのではないでしょうか。