教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ、主に賛美、Laudato si'』(つづく、3章107番〜109番)


[人間不在の技術と人間不在の経済優先主義というパラダイム(考え方)に対する懸念]

107. 科学とテクノロジーの方法と狙いに個人の命と社会の働きを形づくる認識論のパラダイムに頼る傾向から、今日の世界の多くの問題が(たぶん無意識のうちに)、生じると言えます。この型にはめられた人間と社会に強要する影響は環境の悪化とつながります。これはちょうど人間の社会的な生命のあらゆる面に影響を及ぼす還元主義の徴候の一つだと言えます。我々は技術的製品が中立でないことを認めなければなりません。なぜならば、それらは結局ライフスタイルを条件づけて、特定の強力なグループの利益にとって都合のいい方向に社会的可能性を形づくることになる枠組みを構築すろからす。全く「手段」についての決定であるかのように見える多くの選択は、実際は、我々が「目標」にしたい社会についての決定です。

108. 前述したとは異なる文化的なパラダイムを勧め、単なる道具としてだけテクノロジーを使用しようと提言することは、この頃は考えられないです。技術的パラダイムにたよらないでいられなくなったし、そのパラダイムの論理に制約されずに技術を使用することは難しくなりました。テクノロジーに依存せずに、その経費とそのグローバル化し、大量生産する力から独立した(少なくとも部分的に独立した)ライフスタイルを選ぶことは、文化的に逆流で泳ぐことになります。事実、技術はすべてをその厳しい論理に吸収する傾向があります。そして、技術を持っている人間が知っているように、「技術は根本的に有益や福祉のためではなく、支配することに方向づけられており、厳密な意味での支配をめざしているのです」(87)。したがって「人は、自然も人間の実存も支配しようとします」{88}。その結果、「決定をする能力と本物の自由とそれぞれの創造力のためのスペースは、減らされます」。

109. 技術優先のパラダイムの影響は、経済と政治を支配する傾向があります。人間へのその潜在的なに悪影響に対する懸念なしで、経済は利益の目的だけでテクノロジーのあらゆる進歩は今受け入れられてしまっています。金融は、現実の経済を窒息させます。世界的な財政危機の教訓からわれわれが学ばなかったといわなければならないし、環境悪化の教訓もまだ学びきれないのです。

場合によって人は、現在の経済学とテクノロジーがすべての環境問題を解くと主張し、学問的な根拠のない形で世界的な飢えと貧困の問題が市場成長によって解決されるだろうとも主張しする者もいます。しかし経済理論(ほとんど誰も擁護する特定の経済理論ですが)の問題ではありません。問題は経済の事実上の開発です。言葉で唱えられる経済理論ではなく、その実践の有り方[人間不在の経済の実践]がこの問題を示しています。

というのも、生産のバランスを保つことや富のより良い分配をすることや環境及び将来の世代の権利に対する関心を示さずに、経済活動が進められてしまうのです。そのふるまいによってあきらかされるのは、利益を最大にすることだけが十分であると人が思っているということです。しかし「市場それ自体だけは総合的な人間開発を保障しないし、人が排除されないことを避けることが出ません」。なお、われわれは「人間性を奪う惨めな状況と対照をつくる、浪費的で大量消費種類の一種の『スーパー開発』」をしつづけてしまっています」。 我々は現在の失敗で最も深いルーツを見ることができません。それは方向と目標を経済および技術と経済成長の社会的意味と関係があります。