教皇フランシスコ回勅『ラウダト・シ』、『主に賛美』 (つづき10・13番)

アシジの聖フランシスコ

10.この回勅を書くに当たって私たちをひきつける美しいモデルを目の前においておきたいのですが、その模範はアシジのフランシスコです。私はローマの司教に選れた時、彼の名前は私を導く星にしました。フランシスコは弱いものをケアーすることの典型的な模範ですし、喜びをもって生きられる総合的なエコロジーの姿をしめしています。彼もまたエコロジに関する勉強や活動を行う者の保護者であり、キリスト者ではない多くの人々からも慕われているのです。

フランシスコは神の創造およびもっとも弱い立場にいるものに対しては特に気遣いをしました。彼は愛し、愛されていたのはその明るさ、寛大さと普遍の心のためでした。彼は神秘家であり、旅人でした。質素な生活を送り、神との調和、人と自然との調和、そして自分自身とも調和して生きていました。彼においては自然への関心と貧しい人々に対する正義への関心と、社会とのかかわりと心の平安は密接に結ばれていることがあきらかに表されています。

11.彼の証から学ぶように、総合的なエコロジ―のためには、数学や生物学の言語の領域をはるかに超えるものの考え方が必要とされ、人間的なるものを念頭に置いて考えなければならないことは明らかになります。人に惚れる時と同じように、彼は太陽、月、または小さい人々を見るとき、歌をもって反応しました。

フランシスコはすべての被造物と心が通っており、あたかも花には言葉がわかるように『花たちよ、神に賛美しなさい』と花に向かって語りかけていました。被造物に対する彼の反応は知的な評価でも経済的な打算でもなく、彼にとってどの被造物でも兄弟姉妹であり、愛情で自分と結ばれているのを感じました。そのため彼はすべての者をケアーするように呼びかけられていると感じました。彼の弟子聖ボナベンツラは言う、「フランシスコはすべての者の共通な起源を考えるとき、大きな慈しみを感じ、どんなに不愉快なものであっても、兄弟姉妹という甘美な呼び方をしていました」。このような確信は私たちの行動の仕方に影響を与えるものであり、けっして非合理的なロマン主義だと言って無視してはいけないでしょう。もし私たちはこのような感嘆をもって自然に接することができなくて、自分たちと世界との関係について美と兄弟愛の言葉で語ることができなければ、自分たちの目先の利益に制限付けられない単なる搾取者や消費者や支配者の態度しかもたないでしょう。

しかし、すべての存在するものと一致していることを感じたら当然節制とケアの態度が湧いてくるでしょう。聖フランシスコの清貧と節制の精神は単なる外的な苦行におわるものではなく、もっと根源的なものでした。つまり、実在を単なる使用と支配の対象にしてしまうことはしたくなかったのです。

12.他方、聖フランシスコは聖書にしたがって大自然を見事な本として認めるように勧めておりました。その本において神は私たちに語り掛け、その神の美しさと善良さが自然の中に写っている。被造物の偉大さと美しさを通して類似的に創造主の認識に至りうる。(Sb 13,5),神の目に見えない性質,つまり神の永遠の力と神性は被造物に表れている。(Rm 1,20).そのために彼は庭の中での一部分を畑にせず野生のままにさせていました。そのほうが野生の草が芽生えて、人々がそれをみてその美しさの造り主を賛美することができるのです。 世界は説くべき謎であるというよりも、賛美をもって我々が感想する喜ばしい神秘です。

私の呼びかけ

13. 私たちの共通な家を守るという挑戦は総合的で継続できる開発発展を目指して全人類家族を一つにする関心を含みます。事態は変わりうることを私たちは知っております。創造主は私たちを見捨てません。神はその愛の計画には後戻りしないし、私たちを創造したことを悔いるのではありません。

人類はまだ共通な家を作るために協力する能力をもっています。私たちが共有する家を保護するために種々の活動の領域で人々の努力を認め、励まし、感謝したいと思います。特に感謝したいのは、世界のもっとも貧しい人々の生活に響く自然環境の破壊のたいへんな結果を解決するために闘っている人々です。若い人は私たちに変化を求めております。青年たちに言わせれば、排除される人々と自然環境の危機のことを考えずにどうしてよりよい未来を創ることができるのでしょうか。