教皇 フランシスコ回勅『主に賛美』 ラウダト・シ、LAUDATO SI(つづき5・9番)

教皇フランシスコ回勅『LAUDATO SI、主に賛美』 (つづき  5番から9番まで)

5.聖ヨハネ・パウロ2世はますますこの問題に関心を示しました。彼はその最初の回勅から次の点を強調しました.  「人間は、自然環境が直接の使用と消費に役立つものであるということ以外の意味をしばしば理解していないようです。しかし、創造主が人間に自然とのかかわりを持たせたのは、自然の知的で高貴な〈主人〉かつ〈管理者〉とするためであって、それの無思慮な開発者にするためではありませんでした」。

 彼は後にエコロジー的な回心のグロバル化へとたびたび呼びかけました。  しかしそれと同時に次のことに留意するように指摘しました。「真のヒューマン・エコロジーのための道徳的条件を保護する努力は、あまりに少なすぎます」。

人間的なエコロジーの倫理上の条件を保護するために十分な努力はされていないのです」ー 人間環境の破壊はとても深刻なことでもあります。神は世界を人間の手に委ねただけではなく、人間自身のいのちは大事に守られるべきたまものであり、さまざまな形態の損傷からそれをまもるべきです。

世界をケアーし、それをより良いものに変えて行こうと思えば、本格的な変革が必要となります。つまり、「生活様式や生産と消費のモデル、そして今の社会を支配している既成の権力構造の変革が必要です」。 

新の人間的発展は倫理的な性格を帯びており、人間のペルソナに対する全き尊敬を前提にしておかなければならないと同時に、自然世界に対しても注意を払わなければならないのです。そのため、「人は、個々の存在物の本性を、そしてこれこそまさに〈コスモス〉である、秩序ある存在体系のなかでの存在物相互の間の関係の本性を、十分に考慮する必要があるのです」。  

したがって現実を変革させるために、人間が備えている能力は本来神からすべてのものが与えられたことを基礎にして開発されなければなりません。人間は、自らの労働によって世界を作り変え、ある意味で世界を想像する力をもっていることを知っていますが、存在するすべてのものは世の初めに人間に先だって神が賜ってくださったものである」と言うことを忘れたくないのです。

6.私の前任者ベネディクト16世は次の点を強調しました。「世界経済が機能しないことの構造的な原因をなくさなければなりません。 彼が私たちたちに思い起こさせたように、世界を分析するときその一つの要素だけを孤立したものとして見てはいけないのです。  

「自然とは、一つであり、分けることはできません。それは、環境だけではなく、生命、性、結婚、家族、社会関係を包含します。一言で言うと、それは、人間の全人的発展をふくむのです。環境に対する義務は、人間に対する義務と関係しています」。 したがって自然の破壊は人間の共存を形づける文化と密接にむすびついております」。

教皇ベネディクトが勧めたとおり、「自然環境は傷だらけであり、その傷の原因は人間の無責任の行動にあります。社会環境も傷だらけです。そのすべての傷は根本的に同じ悪から由来するのです。つまり、われわれの人生を導く絶対心理がないことと人間の自由には制限がないことという考え方です。

人間は自由だけではないし、自分自身によってだけ自分を作るのではないことが忘れられてしまいます。人間は精神と意志ですが、自然でもあります」。ベネディクトは親心をもって私たちに次のことを意識させようとしました。 つまり、「私たちは最終審級であり、全体は私たちの所有であり、わたしたちの消費のためだけにあるものとしてふるまってしまう際、被造界は害を受けます。私たちは自分たち以外の最終審級を認めず、自分たちのことしか考えないとき、被造界の使用の乱用が始まります」」。

同じ関心事を共有して

7.これら教皇たちの貢献は多くの科学者、哲学者、神学者および社会組織からの考察を踏まえて提言されているので、これらの問題に関する教会の考えはゆたかになりました。さらにカトリック教会以外でも、他の教会やキリスト教共同体において私たちが気に欠けているこれらの問題について貴重な考察が行われ、広い関心が引き起こされています。注目される一例だけをあげるなら、ここで手短にわれらが愛するEcumenical Patriarchバルトロメオの貢献を思い起こしたいです。バルトロメオと私たちは教会の全き一致の希望を共有しております。

8. バルトロメオはとくに力説したことですが、わたしたち各人が地球を自分なりに傷つけたことを謝る必要があるのです。私たちは皆自然環境上の小さな害を引き起こす限り被造界の破壊やその姿が衰えること(たとえ小さな規模ではあっても)への貢献をみとめざるを得ないのです。 この点について彼はしっかりとたびたび刺激を与えて発言し、被造物に対する私たちの罪を認めるように勧めました。

「人間が神の創造した被造物の生物学的な多様性を破壊し、土地を傷つけ、気候変化をもたらし、森を裸にし、緑の地域を破壊し、水、土、空気を感染すること、これらのことはすべて罪であります」。 というのも、「自然に対する犯罪はわれわれに対する犯罪でもあり、神に対する犯罪でもあります」。

9. それと同時にバルトロメオは自然環境の諸問題がもっている倫理的・精神的な原因について注意し、消費から犠牲へ、欲望から寛大さへ、もったいないことをすることから分かち合うことへ移行するという修行の態度をすすめ、「単なる苦行の修徳ではなく、自分のことをかなえるよりも何が世界のために必要なのかを考えることであり、巨富や欲望や依存から解放されることです。

キリスト者もまた「この世界を一致、神と隣人との秘跡としてグロバラな規模での分かち合いとして受け止めることへと呼ばれています。この地球のもっとも小さい埃のひとかけらのなかにも神の衣である被造界の些細なところにおいても神的なるものと人間的なるものがつながっていることを確信しています」