マスコミを敵に回すな Humor y Evangelio en el Año de la Fe (8)

マスコミを敵に回すな Humor y Evangelio en el Año de la Fe (8)

アリタリア航空教皇専用機が離陸してから一時間後のこと。朝食のカフェオレとマーマレードのついた焼きたてのバターロールがおしひそうであった。しかし朝食をとることも忘れるほど随行の記者たちとの歓談に夢中なのは、教皇である(1979年のこと、メキシコへ飛ぶヨハネ・パウロ2世)。

今にして思えば、時代とともに報道体制も変わるものだ。第一バチカン公会議(1869年)の頃、ピオ9世は司教たちに秘密を守らせることに神経を使った。ところが第2バチカン公会議では一変し、すでにその準備段階で、プレス・オフィスができた。

広報事務局の悩み

1961年の10月に、ヨハネ23世は記者団を迎え、誤解にない報道を要請した。ニュースがゆがめられるのは、特に与えられるべき情報が与えられないときであることを教皇が認めたので、その言葉にはげまされてマスコミ関係者たちは、ますます自信をもって司教たちを追いかけた。

公会議中、広報事務局は百七十本を上回るニュースを発表し、数か国語で百四十点以上の資料集を配布した。この仕事は簡単ではなかった。司教団の中に意見の相違があったことを発表したがらないのは、教皇庁当局である。見事な一致があるかのように報道したのがオッセルバトーレ・ロマーノ紙である(当時も今も最高の御用新聞)。そこでフランス司教団と米国司教団などは、賢い回り道を見つけた。時刻のカトリック新聞に、司教からの手紙という形で、公会議ニュースを伝えていたのである。

広報事務局で仕事をしていた神言会の一神父は、よい方法を見つけた。公会議の間、司教たちに記者会見の機械を与える。討論中のデリケートな点に関して質問すれば、司教たちは秘密に対する責任を感じて黙ってしまう。ところが、「この点に関してあなたの教区で、どのような意見野対立がありますか」と聞くと、司教たちは割と気楽に「急進派はこう言うけれども、保守派はそれに対してこう引っかかる」と話してくれる。これは結局、前日の公会議の討論を発表する結果となるのだ。

無冠の帝王の力

三人のカトリックの新聞記者がマスコミに関する公会議の教令の弱点を指摘した。四人の神学者がそれを支持し、さらに十四か国、二十五人の司教の署名した反対意見書が聖ペトロ広場で司教たちに配布されているのを見て、フェリチ枢機卿はおこった。ビラを配ってはいけないと言ってレウス司教の手から取り上げようとしたとたん、吹いてきた風で、ビラは遠くまで飛んでいってしまった。議長の努力でやっと騒ぎは収まった。

結局、1598名(三分の二)でこの教令は可決された。しかし反対者は初め15人だけだったのに、503人までふえた。やはり、マスコミを敵に回せば損をするわけである。

排せ、秘密主義

あれから50年たった今思うのだが、各教区の広報委員会の業績は目覚ましい。もちろん今でもセンセーショナルなニュースで注目を引こうとするマスコミと、慎重論にこだわる、いわゆる御用マスコミ(たとえば、わが国のカトリック新聞!)のはざまで、教会関係の広報機関が揺れ動いている感もある。

ここで思い出すのはヨハネ23世の味わい深い言葉である。「ゆがめられた解釈を避けたいからといって、秘密主義にこもってしまえば、かえって噂の雪だるまが大きくなる一方である」。