多様性と対話の精神 Humor y Evangelio en el Año de la fe (7)

Humor y Evangelio en el Año de la fe (7) 多様性と対話の精神

教会史の授業でうたた寝をしていた神学性がショッキングな先生の野話に一遍に眠気がふっとんでしまった。トリエント公会議では司教たちが意見の相違から、互いに相手のあごひげを引っ張り合って喧嘩したというのである。

第ニバチカン公会議の時は、もっと紳士的であったようである。とはいうものの、えん曲なラテン語の言い廻しで相手をひどく攻撃する者もいれば、流調なラテン語が話せないので、端的に「だめだ」とだけ強く反対する者もいた。その様子をモニターテレビで見ているのは教皇ヨハネ二十三世である。

司教団は合唱団ではない

教皇は特別な時以外は公会議の総会に参加せず、司教たちはかなり自由に討議を交わすことができた。バチカン教皇書斎にはモニターテレビが備えられ、討論の様子を教皇は興味深く見ていた。ちなみに教皇が使うテレビのメーカーは公にされなかった。広告に使われないためである。次の教皇パウロ六世は自分の食堂にもテレビを置いて、毎晩ニュースを見ていた。その時のテレビのメーカの名も表に出なかった。しかし教皇が秘密にしようとしていた討論中の不都合な点の方がみごとにばれてしまった。

あるヒのこと、公会議では激しい口論が交わされていた。ヨハネ23世はそれをニコニコしながら見ていた。傍らにいた長官たちは困ったような顔をしていた。教皇はあくまで温顔をくずさず次のように言った。「大丈夫、大丈夫、議論はあった方がいい。司教団は合唱団ではないんだから、無理にぴったり声を合わせる必要はないんだよ」。

危険分子と言われた神学者

このようにヨハネ23世は多様性と対話の精神を勧めていたが、宗教裁判時代の名残はまだまだ寝深いものが教皇庁にあった。ある日、長老で大物のえらがたオッタビアニ枢機卿は興奮した様子で教皇を訪ねて強く願った。「あのドイツ人イエズス会神学者ラーナーを国へ帰らせてください。」。その上さらに公会議に参加した司教たちのために、教皇庁聖書研究所野先生たちが行っていた連続講演を一日も早く中止することを求めた。そこで教皇は言った。「あの先生たちに講演を依頼したのはだれですか」。『司教たちです』と枢機卿は答えた。そこで教皇は、「司教たちが勉強したいと言うのは、すばらしいことではないか」と言い、さらに付け加えた、「ラーナーという人は、立派な神学者なんですよ。わたしも話を聞きたいぐらいだ」と言われた。

秘密主義に反対

ドミニコ会のスピアッザ師も教皇庁からにらまれた一人である。いろいろな委員会で、公会議にかけられる多く野問題が検討されていた。それを助ける意味で神学者たちは資料を提供した。スピアッザ神父は司祭の独身の意味づけに関する論文を出した。当時はこのテーマに触れること自体がタブーであった。教皇庁から圧力がかかり、同神父はローマで再び教鞭が取れないように、トスカナの管区長に任命された。ところがこのいきさつがヨハネ23世の耳に入った。教皇は彼を、公会議の信徒使徒職委員会の顧問神学者にして姪用回復をはかった。さすが若い頃教会史の先生であったヨハネ23世の視野は広かった。教会内の意見の相違を外部にさらけ出したくない保守派に教皇は「わたしたちは何も隠す必要がないですよ」と言って、オープンな討論野仕方をあくまでも進めさせたのである。