水戸黄門になりたかったパパ様 Humor y Evangelio en el Año de la Fe (4): El Papa de incógnito

水戸黄門になりたかったパパ様 Humor y Evangelio en el Año de la Fe (4): El Papa de incógnito
「大変だ、教皇様が見えなくなた。誘拐事件かもしれない」。バチカンの護衛官たちはあわてた。「書斎にも、謁見室も、どこにもいらしゃらない」。その時、白いスータンのヨハネ・パウロ1世は教皇庁の片隅でコピーを取っており、そばにいる皆が恐縮していた。一週間後に同様の事件がまた起こった。今度は台所で味見をしながらシスターたちと談笑している教皇が見つかった。

ピザパイが恋しい

この教皇ベネチア大司教当時、普段着のまま市内を散歩して、庶民的な店でピザパイを食べるのがたのしみだったという。教皇在位33日の短期間ではあったが、かなり大胆な変革を行った。伝統的な戴冠式を完結な就任式に変え、封建時代の名残とも言える教皇冠を、博物館入りにしてしまった。

在位中の8月13日、教皇はじめ威儀を正した88名の枢機卿たちが、猛暑の中で汗びっしりになってぐったりしていた。ある枢機卿が古典的なラテン語を駆使して長い演説を行ったからである。

やがて自分の番がきた教皇は、皆さんはもうお疲れであろうからと、草稿を離れ、一つのたとえ話を始めた。

「教会が大きな壁時計のようなものであるとすると、事務局(いわゆるバチカンCuria)の長官たちは、そのネジを巻くようなことをしているのではないでしょうか」。

もちろん壁時計が古い時代のものであり、ここで古くなった教会を指しておっしゃっていることが明らかだったので、アジォルナメント(現代化)に逆行するもであることがわかった枢機卿たちは教皇の冗談を聞いて笑い出した。

しかしこうした話が教皇にふさわしくないと思った側近の者もいたようで、翌日のバチカン新聞ではは省略されていた。

ベネチアにいたのころのようにローマ市内を散歩できたら」と教皇は側近にもらしていた。現実は厳しい。水戸黄門のように、もし教皇バチカンからローマ市内に出かけたとしたら、一国の元首が無断で国境を越えたことになり、外交問題にさえ発展しかねない。イタリアの外務省の知るところとなれば、警備陣がパトカーやオトバイをつらねて教皇の護衛にかけつけ、気楽な散歩どころではなくなってしまう。

スキーとローマンカラー

ヨハネパウロ2世も同じ悩みを持っていた。人々との垣根が少しでもとれるようにと、護衛の者から離れ、人々の中に分け入って、気楽に話し合うことをよくした。ポーランドにいたころのように簡単にスキー場に行けたらと残念そうであった。

ところで、教皇がクラコフの枢機卿時代、スキー場で警官からあやしまれたという有名な話を紹介しよう。

若いスキーヤ‐の間で、老紳士の姿は一目に立ったらしい。警官に呼びとめられた枢機卿は「今日は」と言いながら思わずマフラーをゆるめた。マフラーの下にのぞいたローマン カラーを見た警官は「お前は本当に神父なのか」と言って身分証明書の提示を求めた。警官はこの紳士が枢機卿であることは夢にも思わず、「この証明書をどこで盗んだのか」と問いただした。枢機卿はなnとか自分の身分を納得させようと弁明これ努めたが、かなり手間とったということである。

イメージ。チェンジ

この二人の教皇はともにヨハネ・パウロという名を選んだ。ヨハネ23世とパウロ6世の刷新の道を受け継ごうとしたからである。伝統にたまった垢を取り除き、時代にふさわしい教会へと脱皮を望んだ。その大きな変革の一つは司祭職のイメージの変化であった。司牧者を威厳のある父というイメージではなく、親しみのある兄としてとらえるのである。これは聖書的な考え方」で、パウロ6世はこれを最初の回勅で訴え、第二バチカン公会議では『司祭の養成についての教令』(9番)に示されている。
司祭も司教も殿様のような存在ではありえなくなったのである。。。