競技場で大喜び Humor y Evangelio en el Año de la Fe (3)


南欧では、自転車ロードレースの人気が高い。スペインチームが教皇ヨハネ・パウロ2世にサイクリングの自転車を賜った。そのニュースを報道した毎日新聞(1985年6月13日)には、贈られた自転車を手にして楽しそうな教皇の写真が載っており、ユーモアのある小見出しで「リン人愛のまなざし」となっていた。

これを読む人は、きっと教皇に対して親しみを感じるに違いない。日頃、バチカンカトリック総本山という名のもとに、敷居の高いところばかり報道されがちなだけに、このように親しみを感じさせてくれた新聞記者のウィットに脱帽した。

ところで、このようなニュースは日本で珍しがられるが、イタリアは決してそうではない。

23年前にさかのぼってみよう。ミラノのモンティニ枢機卿(のちのパウロ6世)は、競輪を喜んで見ていた。あのときなど、枢機卿の帽子の代わりに選手の帽子をかぶって、写真をとってもらったこともある。サッカーにもときどき行った。その写真を新聞で見たジェノバのシリ枢機卿は、ただちに自教区の聖職者に競技場に行くことを禁じる文書を出した。しかし、その教区の聖職者たちは、服装を変えて見に行っていたということである。
この話を日本のある年輩の神父にすると、故土井枢機卿は大の相撲ファンで、昔はよく見物に誘ってもらったものだと当時の思い出に花を咲かせた。

封建主義から脱皮

味方によれば、目上の人について冗談を言うのはタブーである。場合によっては、教会の中にも上の人を殿様でもあるかのように扱うきらいがある―――信徒が神父を、神父が司教を、司教が教皇を、といった具合に。いつの間にか、あたかも堅苦しくなければ宗教家らしくない、といった通年が生まれる。先日のある小教区の会報に、一人の青年が、「00神父はあまり宗教家らしくなく、気さくな人ですねえ」と書いていた。

その青年に、第二バチカン公会議の『現代世界憲章』を読んでもらいたいものだ。同憲章は「教会の使命は宗教的であるからこそ人間的である」と。
20世紀後半に人間味あふれる教皇が次々と選ばれ、教会の中にその精神が徐々に根づき始めた。

金鵄勲章復権

さきごろ金鵄勲章(武功が特にすぐれた軍人に与えられた勲章)の復権が報道された。胸に勲章をぶらさげた老人を駅などで見かけることがある。ところで、共産圏のお偉い方もたくさんの勲章を身につけて広場に現れる。右左を問わず、人間は封建時代の名残から脱皮しきれないようである。

1970年にパウロ6世は、バチカンの「貴族警備」と「宮殿警備」を廃止した。また、ヨハネ・パウロ1世は戴冠式を簡素にして冠をなくした。

先ごろ、日本でバチカン展が開かれたが、ある古いカトリックの日本人はその冠や飾りを見て、懐古的な憧れをかきたてられたかもしれない。

ヨハネパウロ2世と5分間のインタビューを行ったある記者は、次々と三つの控室に通され、ルネッサンス時代をほうふつさせる装飾に囲まれて、別世界にいるような気持ちになったが、幸いに教皇に会って印象が変わった。飾り気のない語り口で、最近の出来事、また福音についてひとこと述べる教皇に接した彼は、現代にいながら、同時にガリラヤの風かおる丘にひきもどされたような思いがしたという。