Humor y Evangelio en el Año de la Fe.(1)信仰年に福音で微笑む:ローマこぼれ話

Humor y Evangelio en el Año de la Fe.信仰年に福音で微笑む:ローマこぼれ話

笑うことを教えてくれた教皇

早起きのヨハネ23世の午前中は、スケジュールがつまって多忙であった。----ラジオ・メッセージ一つ、個人謁見八名、諸団体謁見二つ、昼のアンジェラスの鐘に合わせて聖ペトロ広場の人々への一言。昼寝はすわったまま短い。午後は山積している書類の事務処理。教理省長官から教皇にサインを求めてきた文章をちょっと見て教皇が首を傾げ、そして後回しにする。夕方も六時ごろになると、疲れてぐったりする教皇ヨハネであった。
ちょうど夕方、教皇が疲れきっている時に限って、こわい顔の教理省長官(オッタビアニ枢機卿)が現れ、長い話で教皇をいっそう疲れさせる。「このごろは、どうも信仰は弱まり、神学は誤謬がふえ、司牧者がしっかりせず、道徳が乱れ。。。」と。
ヨハネ23世は忍耐強く聞いていた。
話がやっと終わりかけた時、教皇は何のコメントもつけずに彼の肩に親しく手をかけ、窓の方に連れていった。
「ご覧なさい。ローマの夕焼けは、本当にすばらしい」。
教皇の顔には微笑みが浮かび、心から夕景を楽しんでいる。いくら暗い話を聞かされても微笑みを絶やさない余裕をもって憂鬱な預言者を戒めるヨハネであった。
教皇がパリでの教皇庁大使を努めていたころ、日記にこう記している。「私の気質は、人も物も好意で迎え、その良い一面をとらえ、やたらに人を判断したり、批判したりしない。また年とともに、人の心の理解も深まってきた」。第ニバチカン公会議の開会式スピーチの中で、教皇は「憂鬱な預言者たち」のことばには耳を傾けたくないと言って、保守派を戒めた。そして、1963年3月7日の枢機卿たちの会合では、こう言った、「あわてることはない。信仰があれば、よけいな心配はしなくてもよい」。
ヨハネ23世が亡くなったとき、モンティニ枢機卿(のちのパウロ6世)は次のようにたたえた。「この方はわたしたちに、人生を楽しく過ごすすべをを教えてくれた。確かに彼は大胆な改革を、それとなく微笑みながら行った。彼は確信派に対しても保守派に対しても、笑うことを教えてくれた」。
以前米国で話題になったカトリックの本の中で、『喜劇と信仰』というのがある。その著者は次のように言う。「世の中には笑えない人物が三種類ある:1)独裁者、2」革命家、3)権威にこだわりすぎる聖職者」。
笑えない信仰者がいるとすれば、何と逆説的なことであろう。ともすれば笑う能力を失ったからこそ、歴史の中で宗教は熱狂的・原理主義的になってしまうのかもしれない。宗教戦争と宗教裁判はその典型的な例であろう。
猫は人間を馬鹿にするような顔つきをすることがあるようだ。「幸い、吾輩は人間ではない」といわんばかりに。しかし、人間にできることで猫にできないことは笑うことである。保守派にしても革命派にしても、深刻になりすぎる者は、信仰ばかりでなく人間を失ってしまうのではないか。信仰の原点にたちかえり、夕焼けの素晴らしさをたのしみながら微笑む余裕を持ちたいものである。