なぜ教会は社会問題にかかわるのか

 Social commitment of the Church. Why? Obviously, because of the Gospel!!!

『なぜ教会は社会問題にかかわるのか』。この質問は教会の外部から投げかけられることもあります。「なぜあなたがたキリスト者たちは社会問題にかかわるのか」。
答えは一言で言えます。「教会は社会問題にかかわるのは、かかわらずにいられないからです」。
エス様の弟子にとって信仰の実践が言うまでもなく重要なことです。イエス様はおっしゃいます。「私が飢えたときに食べさせ、のどが渇いたとき飲ませてくた」と。この関わり方こそ福音書で述べられる最後の審判の基準です(Mt 25, 31-46)。
エス様が語った「よきサマリア人のたとえ話」が浮かんできます。不正の被害者が傷だらけによこたわっています。そのそばに通った宗教者が見ないふりをしてとおりすぎましたけれども、よきサマリア人はとおりすぎないで、被害者を見る目、そのそばに立ち止まる足、はらわたを突き動かされる慈しみをあらわしました。「あなた方も同じようにしなさい、隣人になってください」とイエス様はおっしゃいます。この慈しみこそ社会問題にかかわるときの基本です。
山上の説教でイエス様はおっしゃいます。「幸いなるかな慈しみのある人」、情け深い人、人の痛みがわかる人」。このいつくしみから平和と正義を求める力が湧いてきます。さらに、「平和を造る人、義に飢え乾いて解放をこころざすから迫害を受ける人は幸いである」とも言われます。 
私たちは毎日のようにニュースで伺いますが、不正の被害者の姿です。戦争から逃げる難民、社会の片隅に追いやられる人々、経済・政治の権力から抑圧を受ける人々の叫びが解放を求めます。この民の叫び声が天に届くと聖書で言われます(Ex 3, 9-10)。
第二バチカン公会議は現代世界憲章の冒頭でこう歌っています。「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、とくに、貧しい人々のものはキリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもあります」(GS1)。
平和と社会正義を呼びかけた歴代の教皇たちは福音の原点に立ち返る教会の刷新と社会の福音化に全教会が努めるようにはげましてきました。
教会法も人権擁護のための発言を教会の教える役務のなかで位置付け、次のように述べています。「教会は、社会秩序に関することをも含めて、倫理の原則をいつまでもどこまでも告知し、かつ、人間の基本的人権、または救いに関して必要な限り、あらゆる人間的問題について判断する権限を有する」(CIC, 747,2新教会法1983年)。
この指針のきっかけと出発点はその20年前に与えられていました。それは教皇ヨハネ23世が1963年に著した『地上の平和』(Pacem in terris)でした。キリスト信者ばかりではなく、全世界に善意のあるすべての人に宛たこの手紙では教皇が人間尊重と人権擁護を訴えました。
1967年に教皇パウロ六世は『諸民族の進歩推進について』という回章を著し、南北問題の貧富の差を告発して社会正義の国際化を訴えました。ちょうどその年に教皇教皇庁で二つの重要な機関:「正義と平和評議会」と「信徒評議会」を設立に当たって「全世界で教会をあげて正義と平和をの促進に取り組むに呼びかけました。
1981年に教皇ヨハネパウロ2世は広島で平和への呼びかけの中「正義のもとでの平和を誓おうではありませんか。。。不正の支配するところに、平和をもたらし、武器の支配するところに平和をもたらそうではありませんか」と訴えました(1981年2月23日の広島でよびかけ、6番参照)。
教皇ベネディクト16世は信仰年を宣言するに当たって、「社会の新しい福音化につとめるように」、そして「社会生活を通して信仰を証するように」繰り返して訴えています。
ところで、最後にもう一度ヨハネ・パウロ2世の心遣いを思い起こしたいと思います。正義と平和評議会の課題が誤解されてしまうのではないかと心配された教皇は1981年に『慈しみ深い神』という文書を著し、聖書に基づいた「正義と平和」のことをはっきりさせようとし、正義の促進と平和の建設が切り離せないと主張しました。なぜかと言えば、キリスト者の正義と平和への関わり方がキリストの慈しみによって支えられているからです。世間で言う正義と平和ではなく、キリストの正義と平和、聖書で言われるシャロームです。
そして9・11のテロ事件の後で高まった暴力の連鎖を断ち切る必要性を感じたヨハネパウロは翌年のお正月の平和メッセージの中で次のように訴えました。「正義なしには平和もあり得ないが、ゆるし合いの伴わない正義感もまた偽りです」(2002年正月の平和メッセージ)。
こうした立場に立って教会は正義と平和を求めるのです、「福音を広めること」と「社会問題にかかわること」、言い換えれば、「信仰を伝えること」と「人権擁護にかかわること」は表裏一体になっており、切り離せないものだと教会が教え続けております。詩編の言葉でまとめるならば、「慈しみと真は出会い、正義と平和は抱きあう」おいうことです(詩編85, 11)。