慈しみこそ平和の秘訣ーカトリック『正義と平和』2012年大会に向かって、『義と和』(シャロンム)の原点を探るー Justice and Peace

慈しみこそ平和の秘訣

カトリック『正義と平和』2012年大会に向かって『義と和』(シャロンム)の原点を探る

カトリック教会の儀式に参加する方は「平和の挨拶をかわしましょう」と司式者から呼びかけられます。その呼びかけに答えて会衆のひとりひとりが互いに合掌し、互いに神のシャロームを伝え合います。
シャロームとは、心と体の健康、人と人との和合、家庭と国の平和、宇宙の調和、神と人との一致、祝福などといった豊かな意味内容を持つ言葉です。この言葉のすべての意味をこめて挨拶し合うのはもっとも有意義なことです。

挨拶と幸せ

スペイン語で、「乾杯」のことはsalud(サルー)と言いますが、同じ語源のsaludo(サルード)は「挨拶」の意味です。両語はラテン語のsalus(サルス)、すなわち「救い」という言葉から由来します。
健康とは、まず自分自身のうちの精神と肉体との調和や一致が保たれていることであり、日常生活で挨拶を交わし合う他の人びととのおだやかな協調や一致が保たれることを指します。さらに、すべてのいのちの源である神に対する畏敬と感謝の念を抱き、神との一致を保つということも、健康であることの要素のひとつです。

明るい社会の建

さて、この語源の話を手掛かりにして聖書で言われているシャロームの挨拶を理解したいのです。

聖書では神の平和に基づいた人間関係の調和と明るい社会づくりの理想が示されています。神が望まれる世の中は神の国と言われ、シャロームの場と言えます。このシャロームには前述した三つの意味が含まれています。つまり、「健康」と「挨拶」と「救い」です。このように、三つ編みとなって、イ)健全な生活習慣を大切にすること、ロ)挨拶を通して健全な人間関係を大切にすること、ハ)信仰心によって心の世界を豊かに養うことは互いにつながっています。

慈しみと真が抱きあう

エス自身がたびたび引き合いに出された聖書の言葉はホセア預言者の名言でした。神曰く『私が好むのは生贄ではなくいつくしみだ』という言葉です(ホセア6,6)。山上の説教の中で「慈しみのある人は幸いである」または「人の痛みがわかる人は、神からの力がある」(マタイ5、7)と言われており、その慈しみからおのずと生じるのは平和と解放(義・正義)のある社会をつくるための原動力です。「平和のために働く人は、神の力があり」(マタイ5,9)、「解放・正義に植え乾いている人は、神からの力がある」(マタイ、5、6)とも言われています。たとえて言えば、慈しみという「泉」から二つの川が湧き出ており、ひとつは平和をつくる運動であり、もう一つは解放・正義をもたらす運動です。この二つの川の流れが合流して「正義と平和」の大川を形成するのです。
ただ、要注意。正義と言っても世間でいう正義ではなく、神がのぞまれる正義です。平和と言っても世間でいう平和ではなく、神がのぞまれる平和です。
神の平和を造ることは壊れているつながりを結びなおすことです。
神の正義は人はしばられている「かせ・くさり」から人を解放すことです。
結びなおすこと、解放すこと。これこそ神の慈しみにもとづく働きです。イエスは弟子たちとの別れのとき、自分がつかわされたのと同じように彼らをつかわし、この二つの神の働きを広めるようにという使命を与えました。つまり、人と人を結びつける「絆」をむすぶようにし、人を縛っている「鎖」から人を解き放すようにと勧めて弟子たちを派遣されました(ヨハネ20、21−23参照)。
聖書では「正義と慈悲」が切り離せない関係にあります。正義が伴わない平和は似非の平和であり、慈悲をともなわない正義もまた似非の正義です。狭い意味での正義感に燃えて報復することは聖書の平和観にあわないのです。詩編で歌われているように、「慈しみと真は出会い、正義と平和は抱きあう」(詩編84,11)のです。「正義の実りは、平和を実現する人たちによって、平和のうちに捲かれる」(ヤコブの手紙3,18)とも言われています。

正義と平和委員会

1967年、教皇パウロ6世が教皇庁に「正義と平和委員会」を設立し、全世界の司教協議会にも同じ趣旨の委員会を設けるように要請したのを受けて、日本では1970年、司教協議会の委員会として発足しました。カトリック正義と平和協議会は、キリスト教の教えに基づいて社会問題にとりくむカトリック教会の組織です。この協議会は福音に基づいて、神の御心にかなった世界を実現することを希望し、貧困、抑圧、差別の中で人間としての当然の権利を奪われ、苦しみの叫びをあげている多くの兄弟姉妹と連帯して、正義と平和のために祈り、活動します。

ところが、正義のことを狭くとらえられるばあいの誤解をさけるためにその委員会の名称から「正義」を取り外し、「平和を求める」ことだけにするという要望が提案されたことがありますが、聖書的な意味での正義と平和が切り離せないので、両語を保つことになりました。
そしてまた社会問題にかかわるのは苦手な一部の信徒からも『なぜ教会は社会問題にかかわるのか』と聞かれることがありますが、その質問に答えるには次の質問で言葉を返してもよいでしょう。福音書で示されているイエスの生きざまに従って生きようとしている信徒はどうして社会問題にかかわらないでいられるでしょうか。どうして無関心でいられるでしょうか。


目と足、腹と手

キリスト者は社会活動にかかわり、平和と正義のためにつとめるとき、信仰からの動機付をもってはたらきます。その働きの原点はイエスが語った「よきサマリア人」のたとえ話にあります。(ルカ、10、29-37)。

「ある人がエルサレムから下っていくときに、追いはぎにあい、服を剥ぎ取られ、傷をおわされ、半殺しにされた。たまたま、ひとりの祭司が同じ道をくだってきたが、その人を見ると、道の反対側をとおって行った。ところが、サマリア地域の旅人(外人)は、そこにさしかかると、その人を見て、はらわたをつき動かされて、近よって、傷口にぶどう酒とオリーブ油をそそぎ、自分のろばにのせて宿屋につれていって、介抱した」。
これは「正義と平和の建設』にかかわるキリスト者の社会活動の基本(目と足・腹と手)です。

目:弱い立場におかれている人を人としてみる目をもつこと。差別なしに人を人としてみる目です。

:立ち止まる足をもって、通り過ぎないで自分を必要としている人から逃げないことです。

:他人の痛みを共にすることができ、はらわたを突き動かされることです。

:助けるために手を貸すことです。

私たちはそのように人のため働けるようしたいものです。