RUAH, PNEUMA, SPIRITUS, QI 聖霊は「神の気」

聖霊は「神の気」である

「父と子と聖霊」と言うが、その逆の順序がよい。聖霊によってイエスを通して命の源である神へ至るのである。
  
使徒たちもそうであった。ではイエスは言う。「聖霊は弟子たちに、イエスが誰であるかを示し、天の父のことを現してくださるであろう」と(ヨハネ16,12-15)。

わたしたちの場合には、共同体の現実の中でも、個人の心の中でも、聖霊はイエスと父なる神を現してくださる。
1)大自然を通して、2)共同体と歴史を通して、そして3)私たちの心の中に聞こえる神の声を通して、聖霊は父なる神を私たちに現してくださる。
  
信仰宣言の中で言う「信じます」という言葉は、聖霊によって言えるものある。「聖霊を信じ、教会を信じ、罪の赦しと、体の復活と永遠の命を信じる」という表現があるが、これは正確には、聖霊を信じ、教会という場において神を信じ、そして罪のゆるしと永遠の命に向かって信じるということである。

罪のゆるしを理解する出発点も聖霊ですある。聖霊は新しい心を私たちのうちに創造するからである。そして体の復活を信じるとは、父なる神が私たちに対して、イエスになさったのと同じようになさってくださるであろうと信じることであり、私たち一人一人の生涯、人類の歴史、また宇宙全体も、父なる神によって新しくされるだろうと信じることでもある。

ローマ書8,11を思い出そう。体の復活と創造主である聖霊自身による人間の再創造についての箇所である。それは単なる肉体のよみがえり以上のものである。それが1コリント15,44で、難解ではあるが深い表現で、述べられているとおりである。

使徒信条の第三部は「聖霊を信じる」と言うが、「聖霊」という言葉は誤解されやすい。わたしたちは「父と子と聖霊のみ名によって」と祈るが、この「と」(英語でand)は、神様は三者であるかのように誤解されやすい。

「父」とは、いのちの源である神のこと、「子」とは、わたしたちの間に現れ、神の顔を示してくださったイエス・キリストのこと、聖霊派「神の気」、「いのちの源である神の息吹」、「イエス自身の息吹」、私たちのうちに宿り、すべてのものを生かす神の息吹である。
わたしたちは、「教会を信じる」のではなく、「教会の中にいて」、「教会の中に身をおいて」(ラテン語でin Ecclesia)神を信じるのである。
  
教会は「聖徒の交わり」や「聖霊の交わり」や「聖なるもののつながり・結び合い」や「諸信徒の和合」と呼ばれるのは「聖なる神の息吹によって一つにされている人々のつどい」だからであり、そのつながりこそ教会を作るのである。
  
神によって「尊いものとされた供え物を奉げ、キリストの祭壇を囲んで集う教会は、キリストの霊(気、息吹)によって集められた共同体である。ただ、神の気の働きは決して教会内だけで行われるのではない。教会の中で私たちが祝うのはすでに教会の外で起こっている出来事すなわち「神の気の働き、。世の中を「神の場」や「神の国」に変えようとする働きを祝うためである。


注:スペイン語訳は次のURLで参照されたい。
http://lacomunidad.elpais.com/apoyoajmc/posts