Y Jesús bajó a los suelos 『昇天より降臨をご』 Act 1,1-11

Y Jesus baja a los suelos 「昇天より降臨を」(Hechos 1,11)


スペイン語

      María echaba de menos a Jesús, casi un mes ausente del cielo. Encargó a los ángeles la búsqueda.

      Voló raudo Gabriel a Roma, pero Jesus no estaba alli. Voló raudo Rafael al comité de la JMJ, pero tampoco estaba allí. Voló raudo Miguel a la cena del arzobispo con la patronal, pero Jesus no estaba allí.

      Al fin un sin techo de Entrevias dio el soplo: “Pasó por aqui, nos compró un bocata y se tomó un vino con nosotros. Dijo que iba a Libia y de allí a Sucumbios. Tiene un hombro magullado por las porras de los mosos en plaza de Cataluña, pero dice que vendrá a acampar a Sol el jueves...”

     Los mensajeros angélicos dieron el recado a Maria, que suspiró musitando “¡Este hijo mio! No tiene arreglo. En visperas de la Ascension, no se le ocurre más que bajarse a los suelos…”


日本語:

   「集まっていた使徒たちが、<主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、今ですか>と尋ねた」(使徒1,6)。やはり、弟子たちはまだ、この世の権力とナシヨナリズムにとらわれていた。
 「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」(使徒1,11)。弟子たちは、この世からの逃避という誘惑に陥っていた。

使途たちは、「神の国」を理解せずに、「国の神」にあこがれる。しかも、天の上に芽を向けて逃避する。「国の神ではなく、神の国だって…」。
15章に記録されているエルサレム会議で、重大な転換が行われる。教会は公式に、諸民族へと開かれる。これからは、狭い意味の「国の神」ではなく、広い意味の「神の国」を、弟子たちが全世界に伝えていく。

エスが昇天したというのは、今尚生きておられるイエスが、肉眼では見えないけれども、私たちと共おられるということである。私たちは、イエスが引き起こした運動を世の中でひろげていくために使わされている。

この教えは聖書でいろいろな言葉であらわされている。
「天にのぼられた」というような比喩的な表現もあれば、「世の終りまであなた方と共に、あなた方の傍におられる」という言葉もある。そしてもっと深い意味を持つ表現はエペソ書の朗読で聞く言葉である。「すべてのものを満たすため」・「すべてのものを通して働き、すべてのもののうちにおられる」というのである。

生前のイエスについて「どこにおられるのかと聞かれたばあい「ここだ」「あそこだ」とか言えたが、今、昇天したイエスはどこにおられるのかと聞かれたら、指で指すことができる「ここ」や「あそこ」ではなく、どこにでもおられる。

エスの光りに照らされて世の中を見ることができたら、どこを見てもどこにでもイエスがおられるということに気づくことができるであろう。私たちは今日イエスの昇天を祝うに当たってこう祈りたい。どうかイエスの光りに照らされて世界を見ることが出来るように。