Lázaro no revivió. "Dejadle ir..."ラザロは生き返らなかった。 JN 11

SMS BIBLICA Jn 11 ラザロは生き返らなかった。

ラザロの生き返りの話は史実の記録ではなく、象徴的な物語を通して信仰を表すものであり、「史実の記録」や「事実の情報」よりも「信仰の現実」に触れさせる話である。イエスは奇跡的にラザロを蘇らせたのではない。イエスが死に打ち勝って生きているからイエスとつながっているわたしたちは死んでも生きるという信仰を伝える話である。
新約聖書で「復活」と呼ばれている出来事は、この世の生命に生き返えることではなく、永遠の生命に入ることを意味する。
もしラザロはこの世の命に生き返ったとすれば、正確には「復活」と呼ばれ得ない。
そのためにヨハネはいかにも象徴的に、墓から出てきたラザロの姿をこう描いている。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言った」(11・44)。「ほどいてやって」と言わなければならなかったのである。そう言ったのは、イエス自身であった。
ラザロをほどいて行かせてやらなければならなかったのと同様に、死に対する恐怖によって束縛されていた弟子たちをも解放してやらなければならなかったのである。そのためにこの物語の初めに、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気です」(11・3)と言われたとき、イエスはすぐ治しにいくことはしない。後に「あちらに行こう」と言われたとき、弟子たちの中には、心配して、「先生、ユダヤ人たちは先ほども石打ちにしようとしたのに、また、そこへ行かれるのですか」と言う者がいた。結局、友人の病気を前にしても先生が殺される危険を前にしても、弟子たちの根本間題は、死に対する恐怖と不安であったのである。
まさにこうした不安から人間を解放することこそ、いわゆる「奇跡」よりも大きな奇跡であると言えるのではないだろうか。つまり、一人の死人を生き返らせるよりも、死に対する恐怖のあまり希望を失った人間に希望を取り戻させることの方が、より大きな奇跡であると言えよう。
それが、この話の頂点をなすイエスの次の言葉の意味である。「わたしは復活であり、生命である。わたしを信じる人は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる人は皆、けっして死ぬことはない」。ここで言われている「いのち」とは、この世の生物学的な意味での生命に生き返るときの生命でも、単なる life after death(死後生きながらえること)でもない。それはむしろ、現象としての生と死を越えた真のいのち、永遠の生命 life beyond death なのである。


Cuando Jesús se asoma a la tumba abierta, no sale de ella un cadáver revivido. Si hubiera sido así, lo propio sería que dijese Jesús: "Ponedle abrigo, metedlo en casa,m dadle de comer" Pero dice "Dejadlo ir...porque se ha ido y ha entrado en la vida verdadera pasando por el túnel de la muerte"

"Dejadlo ir significa "asumid y aceptad su muerte que es entrada en la vida.

Quitar a los discípulos el miedo a la muerte es un milagro mayor que hacer revivir un cadáver. Lázaro no revive. Esta narración simbólica expresa la fe en que jesús vive y es la vida de nuestra vida, que nos libera del miedo a la muerte.