La matriz no es una bolsa (母体は単なる「袋」ではない)

母体は単なる「袋」ではない



わたしが日本語を覚え始めたころ、「おふくろ」ということばにひっかかりました。敬語の「御」に「袋」という文字ですが、「袋たたき」や「袋小路」のイメージを連想させられました。先生は丁寧に「腹を痛めて生んでくれた母親のことを親しくお袋と呼んでもおかしくない」と説明してくれました。でも、オーストラリアのカンガルーのイメージもまた浮かんできて邪魔になります。その雌は、周知のとおり、子供を腹部のポケット状の袋に入れて保育するのです。

子宮は入れ物か

変なまえおきですが、これから命を大切にする話をします。
結論を先に言うと、〈女性の体はもちろん単なる産む機械ではありません。さらに、母体の子宮は、胚が入れられている単なる入れ物と考えてしまってはいけない〉。
生命倫理の授業では〈着床後における、母体と胚の共同作業によって新しいいのちが発生する〉ことについて学びます。妊娠の三週間目から八週間目の間に形成されていく新しい人間の固体にとって、母体と胚の相互作用は本質的なものです。砕けた表現を使うと、胚は〈おなかがすいても外へ出てコンビニに買い物に行くわけには行かないし、トイレに行きたくても外へ出てトイレに行ってくるわけにもいかない〉の0です。
要するに、母体は胎盤を通して胚にとっての胃腸・腎臓・肺などの役目をはたしています。その膜を通して胚に栄養が与えられ、呼吸のため酸素も補給されるし、胚の排泄物の処理は母体の血液が引き受けています。これは胚にとってはありがたく、母体にとって負担なのですが、このようにして八週間目から胎児と呼ばれる新しい命が形成されていくのです。
哺乳類の胚の発生は魚や鳥と違って時間がかかります。複雑な神経や器官や臓器などの形成に手間ひまがかかるので。そのための必要な栄養は卵細胞の中に蓄えておけないので、母体に依存せざるをえません。こうした「胚と母体」相互作用は胚が子宮の壁に着床することを完了したときから始まります。
(これを理解すると、生命倫理性教育の授業の役に立ちます。たとえば、着床を妨げる避妊法、生殖補助医療で母体に戻さない余剰胚の用途、緊急避妊の投薬、再生医療のための特定胚の研究使用など…生命倫理で議論されているこれらすべての件は中絶によって絶たれる命の問題ではなく、着床以前の避妊のことですので、中絶の問題とは根本的に次元が違うわけです)。

生理学から人間学

このように母体と胚の密接なつながりについて考えると「ヒトの発生学」の話はいつの間にか「人間学」の話になります。胚は母親の体の一部分にすぎないようなもでもないですし、完全に独立した存在にはまだなりきっておらず、依存しながら独立し始めているのです。生涯、人間関係において依存と独立の間の緊張がつづき、各成長段階の「母体から離れる」ことによって人間が成長していくようなものです。
最近、生殖医療や遺伝学の発展に影響されて遺伝子のことを過度に主張する傾向があります。「遺伝の親」だけが絶対化され、「生みの親」と「育ての親」も一人の人間形成に決定的であることが忘れられがちです。子どもを虐待したり、見捨てたりする世の中になればなるほど、母体の中で創造されるかけがえのない新しい命の重みを学ぶ必要があります。

胎内の踊り

聖書では命に満ち溢れている神の慈しみを表すため「ラハミーム」というヘブライ語の言葉がもちいられ、「母親の胎」を意味する表現で、母が子に対して抱く「内臓の胎動」にたとえて神の慈悲が語られます(詩篇5,8;116,5)。神は母親のように人間を大切にし(イザヤ66,13)子を見捨てない母親にたとえられ(イザヤ49,15)、命が創造される源である子宮こそ慈悲のイメージを具現化します。
ルカ福音書にはおなかの中の赤ちゃんの最初の胎動を感じ始めるころのマリアは妊娠六ヶ月のエリサベトを尋ねます。従妹に来てもらってうれしかったエリサベトは「あなたの挨拶のお声をわたしが耳みしたとき、胎内の子は喜んでおどりました」と言います。マリアは「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」と賛歌で答え、その後三ヶ月ほどエリサベトのところに滞在します。(ルカ1、39-56)。

誕生を待ち望む

この二人の女性は何を希望し、何を心配して話し合ったのでしょうか。エリサベトは妊娠するには年をとりすぎていて、マリアは逆に若すぎるのです。分娩は大丈夫かとエリサベトは心配し、未婚のままで妊娠しているマリアは周りから変な目で見られ、婚約者ヨセフからどのように受けとめられるか、心配があったにちがいありません。
この二人の女性はどの妊娠にも伴う不安と希望の結晶です。マリアはみ使いの言葉にはげまされました。「心配するなよ。いと高き方の力があなたを包み入れるでしょう」。マリアの答えは意味深長でした。「お言葉のどおりにこの身になりますように」。「お言葉のとおり」と言うのと、「この身に」と言うのは大切な二点です。「いと高き方の力にマリアの身は包みいれられた」。マリアの身に起こることは「お蔭様」で引き起こされるのです。
身ごもるということは「自分の身に起こる」ことであると同時に「お蔭さま」で聖霊の働きによって起こることでもあります。マリアやエリサベトの身、身ごもるすべての女性の身に起こることは、「親の働き」であると同時に「創造の業」でもあります。親が子供をもうけることは子供を授かることです。昔から言われたように、「業事は人の工にし、成事は天工なり(なすことは人のたくみにし、なることは天のたくみなり)」。
子供を造るというとき、創造の「造」という字を使います。英語でprocreationすなわち「創造のわざへの協力」と言います。親が造る子どもは神から授かるこどもです。どの赤ちゃんでもおやから生まれると同時に聖霊によって生まれるとも言えます。イエスの誕生物語に照らしてすべての誕生に起こる不思議な神秘がほのめかされるのです。このことを象徴的に描いたルカ福音書を読むとき、生まれる命の重みを感じさせられます。それとは対照的にマスコミが伝える事件、ゴミ箱に捨てられた赤ちゃんのニュースを聞いて心が痛みます。
生まれてくるすべての命が待ち望まれて生まれ、歓迎される家庭の中で育つように願いたいものです。

La matriz no es una bolsa

En japonés se llama cariñosamente a la propia madre “o-fukuro”(mi bolsita). En español, una madre exclama: “¡Hija/o de mis entrañas!”. El equivalente nipónico es: “¡Hijo/a que nació con dolor de mis entrañas!”
La relación embrio-materna es verdaderamente entrañable.La metáfora de la bolsa no es apropiada. Ni el seno materno es un mero recipiente (bolsa, contenedor, envase...), ni la mujer una máquina de engendrar como molde de fábrica.
El embrión de tres semanas no puede permitirse el lujo de salir de su camita para dar un paseo, tomar un café o ir al baño. En el intercambio a través de la placenta, la madre hará para el embrión un papel de pulmones, estómago, riñon, etc.; le proporcionará oxígeno y nutrición, se encargará de asumir sus desechos. Por eso el embarazo es carga para la gestante y beneficio para la futura nueva vida, todavía emergente, que se está constituyendo.
En los mamíferos -no ovíparos, sino vivíparos- el intercambio embrio-materno es esencialemnte constitutivo de la nueva vida, que en los humanos llamamos feto a partir de la octava semana. Estas consideraciones nos llevan, de la mano de la embriología, a la antropología y la ética. Una de las razones para cuestionar la maternidad de sustitución -ya sea de mera prestación de útero o incluya donación de óvulo- es precisamente el carácter esencial, constitutivo y constituyente, de la relación embrio-materna de la tercera a la octava semana, que nos invita a formular : “la matriz no es una bolsa”.
En el mismo contexto biológico se enmarca la distinción ética entre contracepción (impedir la fecundación del óvulo), intercepción (impedir su implantación), interrupción prematura del embarazo (antes de la octava semana) y aborto en el sentido moralmente estricto de la palabra (a partir de la octava semana).

(Publicado en japonés en la revista mensual "Akebono", ed. Religiosas de San Pablo, Tokyo, noviembre, 2010)