願望と技術の独走

子供が欲しいという願望を持つのは悪いことではなく、親としてそのような気持ちを持つことは当然です。
 
生殖の過程を技術的に操作できるようになったことも、一概に悪いとは言えません。不妊の問題で悩んでいる方にとって、自然に出来ないことを実現させるために技術の助けを借りることは当然でしょう。しかし、助け手である者が助けるという役割の領域を逸脱してしまうことがあるでしょう。技術というものが絶対視されれば、親子関係も家族関係も危険に曝されるのではないでしょうか。
 
演劇の舞台には主役とわき役とがいます。わき役を演じている者が主役となってしまえば、劇は成り立たないでしょう。どのような指揮系統においても、従うべき者が指揮者のように振る舞えば、事は上手く進まないのです。この例えをここで「願望」と「技術」にあてはめたいと思います。つまり、この両方ともわき役であると言いたいのです。
 
子供が欲しくもないのに妊娠するということは道理に合わないのです。けれども子供が欲しいからという理由だけで妊娠するのもまた問題です。子供が欲しいと望んでいる夫婦には、子供を生むにあたって計画を立て、生まれてくるその子供を育てる意図を持ち、家庭を作ってゆきたいという意志があるはずです。ペットを欲しがるのと同じように子供を欲しがるとすれば、それはわき役が主役になったことを意味します。
 
技術の助けによって不妊の問題を乗り越えることができるのであれば、それを使うことで非難される理由はありません。しかし、生まれてくる子供のことや、親子関係のこと、また夫婦関係のことへの配慮なしに、技術的な操作によって治療を逸脱するような領域に踏み込めば、まさにわき役が主役になってしまったと言わざるをえません。
 
次に、こうした逸脱行為のいくつかの例を検討することにしましょう。

  祖母は母親か、母親は姉か

  46歳のX婦人は離婚してから十年経っていました。彼女には25歳の娘がいました。X婦人は子どものいない未亡人のYさんと再婚しました。これからはじまる新しい家庭を作るにあたって、ふたりともの子どもが欲しいと思っていたのですが、X婦人はもう閉経をむかえていました。生殖補助医療のクリニックで相談したところ、彼女の年齢では体外受精医療の対象者になりえないと言われました。そこで、夫の精子と自分の娘の卵子の提供を受け、第三者の女性に代理母を依頼する方法を選んだのです。X婦人の娘の細胞は、50%が母親の遺伝子であり、卵子を提供すれば、子どもの25%の遺伝子はX婦人と同じということになるのではないかとかんがえたらしいです。このようにすれば、生まれてくる子どもはX婦人とY夫との遺伝的繋がりを保つことができるという理由でこの方法が選ばれました。
 
このケースを伝えたあるマスコミは、次のようなパズルめいた質問をしていました。この子どもにとってX婦人は母親であると同時に祖母であると言えるでしょうか。そして、卵子を提供したお嬢さんはこの子の姉であると同じに遺伝的には母親と言えるでしょうか。さらに、子宮を貸し、妊娠期間に自分の胎の中で育て、お腹を痛めて生んだ代理母を含めて数えると、この子には三人の母親がいると言えるでしょうか。
 
私はそのような質問よりもむしろ、次の根本的な疑問を投げかけたいと思います。果たしてこの子どもの幸せを考えてその方法が選ばれたのでしょうか。一体、誰がこれから生まれてくる子どもの立場に立ってものを考えてくれるのでしょうか。
 
実はこのケースにはもう一つの皮肉めいた結末があったようです。X婦人は結局、夫の浮気が原因で再び離婚したのです。しかもY夫の浮気の相手は、卵子提供をしたX婦人の娘でした。

 七つ子

 1997年11月、アメリカ。アイオワ州で七つ子が誕生しました。七つ子の親となったこの夫妻は、一人目の子どもをもうけるために排卵誘発剤を用いていました。そして二人目が欲しいと願って同じ方法に頼ったのです。妊娠途中で七つ子だと分かり、医師から減数手術をすすめられたにのですが、この夫妻は危険を承知で、すべての子を産むことを望みました。そして帝王切開によって、7人全員が無事に生まれました。この例はハッピーエンドでしたが、似たようなケースでは大抵減数手術が行われることが多くあります。「減数手術」という言葉が技術専門用語であるかのような印象を与えますが、はっきり言えばこれは「選別的な中絶」であり、多胎児の中からの数人を殺すことに他ならないのです。そもそも、多胎妊娠を引き起こした技術が問われなければならないのではないでしょうか。多胎妊娠の場合、早産、未熟児、さらには一部の胎児がなくなったり、しょうがいが生まれる可能性が高くなり、母親が妊娠中毒症になる危険も大きいです。そして母子が受ける影響だけではなく、何よりも気になるのは多胎妊娠とわかると、中絶を選ぶ親が少なくないことと、胎児の一部を「減収手術」によって中絶させることを勧める医療側の決断です。難しい決断であることを認めたとしても、そもそもこの問題を引き起こしたのは医療技術の一人歩きではないかと思います。
 
人工受精や対外受精を行うにあたって精子を選別する方法が開発されたことにより、男女産み分けの可能性が開かれました。しかし「できるようになった」この技術は、果たして「使ってもよい」技術でしょうか。当初、この技術は倫理的に認められうる場合にのみ、例外的措置として用いられました。精子を選別する産み分け技術は、伴性劣性遺伝病を避ける目的に限ると言われていました。しかし現在では、事実上、「女の子が欲しくない」または「女の子が欲しい」などの理由でこの技術が利用されるようになりました。
 
ヒトの精子にはX染色体を持つX精子Y染色体を持つY精子があります。X精子が受精すると女の子、Y精子が受精すると男の子が誕生します。しかし、ただでは差別の多くて、特に女性の立場が低い社会の中ではなお差別の原因を無制限に増やしてよいものでしょうか。

もう一例。夫死後二年、保存精子で出産。

夫を無くした女性が、医療機関に凍結しておいた夫の精子で人口授精し子どもを出産したことが、2002年6月に日本で発表されました。男児は遺伝上、亡夫の子どもですが、死亡後は夫婦関係が消滅するので法律上は夫の子として認められません。戸籍上は「父親不在」となります。フランスでは80年代から問題とされたていますが、法律的に亡くなった夫が父親と認められるにはいたっていないのです。英国では、亡夫を父親と認められるためには生前の夫の文書による同意が必要とされます。このケースをめぐる議論では「亡夫の子どもを産みたい」という願望を強調した者もいれば、「凍結保存が特別ではなくなった以上この問題も避けられない」という指摘をする者もいました。私見では、『願望』と「技術」が一人歩きするとき、一体誰が当事者である子どもの幸せを考えてくれるかと問いかける必要があると思います。

 以上に挙げた例はどれも大げさなケースばかりだと思われるでしょうが、いずれも実際にあったことで、マスコミで報道されたものです。しかし、そのような極端なケースがあったからと言って、不妊治療一般に対して否定的な態度を取るのもまた極端でしょう。私はここで両極端を避けたかったわけです。世界で初めて試験管べービーが生まれたときには、ふたつの極端な反応がありました。ひとつは自然の摂理に反するから絶対にいけないという立場でした。もうひとつは、不妊の問題に対する万能薬であるという楽観主義的な意見でした。現在であればむしろ、この技術の長所と短所を見極めた上でこれを用いるべきだというバランスの取れた意見が主流となってきました。最初の試験管ベービーであったルイーズ・ブラウンの両親に祝いの電報を送ったルチアニ枢機卿(後に皇ヨハネ・パウロ一世)は、まさにその立場に立っていました。彼は親に対してはおめでとうございますと言い、助け手となった医療技術にも感謝を表し、同時に「どうかこれからこの方法を使うに当たって、人間の尊厳が傷つくことがないように」という但し書きをも付け加えたのです

  中絶は個人だけの問題ではない

七つ子の中絶のことを新聞で読んで思ったのですが、非常に例外的なこのケースについて考えるとき、まず母親を攻めることをさけたいと思います。そして医療の限界と社会の責任を強調したいです。排卵誘発剤を使用するとき、そこから生じうる結果を十分に考えなければ無責任だと言えましょう。こうして例外的な中絶の理由として、母胎への危険性と経済上の困難があげられましたが、この二つの理由は同列に並べられるものではないと思います。もし生みたいと本人が決断した場合、育てるための助けを社会は差し伸べるべきです。こうした点を考えないで本人だけを攻めることのないようにしたいものです。いのちの問題は、個人的な問題であるだけではなく、大きな社会問題でもあるからです。
 
要するに、中絶は個人だけの問題ではない。中絶におけるふたつの大きな社会問題があると思います。一つは、中絶の社会的な原因の問題です。それから、もう一つは文化の問題です。つまり、私たちの文化における中絶に対する一般の見方の変化、その背後にある生命観の問題が問われていると思います。したがってむずかしい倫理上のジレンマに直面している本人に対し、必要な思いやりをしめしながらも、同時に社会に向かって生命尊重に対する責任をもっと呼び起こす必要があるでしょう。
 
生殖に関する新しい技術が応用されるにあたり、生まれてくる子供のことが本当に十分考えられているのでしょうか。もしかすると、生まれてくる子供も生む女性もモノ扱いされてしまう心配がありはしないでしょうか。そして、生まれてくる子供の人権が無視されないということが十分に保証されているのでしょうか。
 「子供がほしい」という願望の背後にあるものは、全部良いものなのでしょうか。ある医師は、「子供がほしいと言っている親の願望をかなえてやりたい。そのための技術を備えているのだから、やってあげてもよいのではないか」と言いました。この考え方の妥当な面を認めても、やはり生まれてくる子供のことを、本当に大切にしているのだろうかという疑問が残ります。そうすると、まだ声なき者の人権はどうなるものでしょうか。まだ生まれていないのですから、本人に聞くわけにもいかないのです。
 
さらに、その子供に対する社会の受け入れ方も考えなければならないでしょう。それから、子供たちに新しい技術を使って生まれたことを告げ知らせるべきでしょうか。「告げてもらう権利」があると主張するひともいます。でもその場合、子供への精神的な影響はどうなるのでしょうか。告げたほうがよいかどうかは、わかりません。つまり、子供の立場と長期的な結果を考えないで技術のみが先行しているとすれば、その点が一番問題なのではないでしょうか。
 
また今の日本では、ある子供が養子縁組でもらわれたなどというわけで、結婚問題などでいろいろ差別されることがありますが、体外受生の場合など、この出生の秘密をあきらかにするかどうかの問題は、当然新しい差別を生むことにつながるのではないでしょうか。