胎児への思い

       追い詰められた女性たち

   すでに二人のこどもを生んでいたAさんは、三回目に妊娠したとわかったとき嬉しかったのですが、一緒に住んでいた姑はよい顔をしませんでした。両方の間に挟まれた主人は母に対して強くものが言えなかったのです。結局、堕ろしたくないのに、堕ろすような羽目になりました。心に傷が残り、やっとそれを打ち明けてくれたのは長年経ってからのことです。信仰者なのに、教会の中でそのことについて今まで話せなかったのは残念なことで、この人は癒される機会があのころありませんでした。
   
   Bさんの相談は特に辛かったです。Bさんは主人の強い圧力で子供を堕ろすということを妊娠の途中で私に打ち明けましたが、その時の本人のことばは切実でした。「私は堕ろしたくないし、堕すべきではないと思います。でも、やむを得ず悪いと思いなが堕ろします。どうしようもありません」と。張りつめた沈黙が流れてから「あなたは今こうして打ち明けてくださったのですが…」と私は言い始めました。すると本人が私の言葉を遮って「いいえ、神父さん、何もおしゃらないでください。『堕ろしてください』とも言えないでしょうし、『生んでください』とも言い辛いでしょうから、何も言わないで、聞いてくださっただけでいいのです。私はこれから神さまの前で決断します」と言いました。私は「はい、わかりました。あなたの気持ちを尊重して今話してくださったことについて触れないことにします。ただあなた自身について一つだけ言わせください。今どんなにあなたが悩んでいるかを一番分かっている神様は、これからもあなたを見捨てることはないのです」。長いあいだあの方に会わなかったし、その後どうなったかわからなかったのですが、久しぶりに彼女が現れたとき、感謝したいと言ってきました。もちろん私は立ち入った質問はしなかったのですが、本人のほうから切り出しました。「あの晩、私は罪悪感を持ちながら堕ろすつもりでいたので、おろした後で教会から離れるつもりでしたが、『どんなことがあったとしても神様はあなたを見捨てられない』とおしゃってくださり、救われました」。そう言って「あの胎児のために祈ってくださいますか」と言った。そこで私は、「いいえ、あの胎児のためではなく、あなたのためにあの胎児に祈ったほうがよいでしょう。あの胎児こそ、今のあなたの守護天使なのです」と言いました。

   Cさんは初めての妊娠のとき嬉しさと不安を同時に感じました。主人は別の女性との関係があったらしく、夫婦のあいだに亀裂ができていました。そのような時期に妊娠となるとこれからどうなるのかと心配でした。自分の親と相談しても姑と相談しても同じことを進められます。離婚するのだったら今生まないほうがよいと思ったそうです。生みたいとも思うし、生むべきであると思っている彼女は、たまたまそのころ教会に通い始めていたのですが、教会でこの悩みを打ち明けて話す自信がありません。彼女は聖堂で長い時間ひとりで祈り、神様の前で重い決断をします。その後、色々なことがありました。幸いなことに夫婦の仲は回復し、家族は洗礼を受けるようにもなりました。ゆるしの秘蹟を受けるとき励ましの言葉をいただいたのですが、長年経っても心にある傷が癒されていなかったと言います。最近、神のみもとにもどった胎児を偲ぶ祈りに参加して、やっと心の平安を取り戻せたと言っております。

   Dさんは中絶の後、そのことを友だちの女性に打ち明ける必要があるのではと感じていました。同じ教会に通っている友人に話したところ、その日以降、その友人が自分から離れていったような印象を受けました。信者でない友達に話すと、「そんなこと心配しないで。あなたはやむを得ずやったのだから。よくあることよ」と言われて、結局どちらからも癒されませんでした。彼女は最近になって、色々な事情で子どもを失った方々が共に集う祈りに参加して、やっと心の平安が得られました。神さまに向かって胎児の取次ぎによって祈り、無名の手紙を祭壇に備えました。
Eさんは高校二年生で、年上の社会人との関係で妊娠しました。最初は生みたいと思ってはいましたが、相手からも自分の家族からも堕ろすように勧められ、そうすることになりました。堕ろした後、落ち込んでしばらく学校を休んでいました。彼女の面倒をよく見てくれた校長先生は彼女が立ち直るように手伝おうとしました。学校にも出られるようにしたかったのですが、一部の教員から強い反対がありました。不思議なことには、一番厳しかったのはそのミッション スクールで勤めていた一部の無宗教の教員でした。「うちの学校に限ってこんなことを...」と言いながらその高校生を見捨てた教員たちは、本人が立ち直ることよりも名門校の看板を大切にしていたようです。それに対して宗教者の校長先生が反対できなかったのもなさけないことだと私は思いました。

   以上に挙げた例の大部分は、既婚者の女性でした。教会の現場で相談を受けるという具体的な経験からの話でした。皆それぞれの異なった事情でしたが、共通な点は「胎児への思い」でした。ちょうどそこから小見出しをつけたわけです。ところで、それとは対照的な現象があります。2002年の夏、新潟で開催されたカトリック医療関係学生セミナーで、人工妊娠中絶に関するアンケート結果が発表されました。

   身近に人工妊娠中絶を経験した人がいるかという質問に対して26%「はい」と答えていました。心の傷を受けたかという質問に対して95%は「はい」と答えました。ところで、「どんな問題で心の傷を受けたか」と言う質問に対して圧倒的に多かった(77%)のは「パ−トナとのこと」でした。私はこのアンケートを大学の一年生と二年生に紹介し、意見を求めたところ、多くの女性は男性の「無責任」とか「避妊の負担は女性だけにかかる」とか、「相手を引き止めるために肉体的な関係を持ったが、後で相手から見捨てられた」とか言うようなコメントをしました。
前述した「胎児への思い」はこのアンケートに表れた「相手への思い」と対照的かもしれませんが、両方の場合に困難な立場にいるのは「追い詰められた女性たちではないか」と考えさせられます。

   X高校性は年上のパートナーとの交際で妊娠しました。相手は妊娠のことを告げられると「お金が目的なのか」と言いました。そして彼女は、自分がまだ高校性で経済的にも社会的にも無理ということでそのパートナーの大人と一緒に病院へ行き、中絶手術を受けました。親の承諾もなく、家族や学校に自分が妊娠したことが知られることもなかったのです。パートナーの社会人は、女子高校生と愛情のない交際をし、自分の欲望を発散するためだけに彼女を利用したと思われます。信用のできないところで中絶してから後遺症が残るかもしれません。肉体的にも精神的にも傷ついているのはその女性であり、その上パートナーの裏切りで悩みます。人生のどん底においやられます。周りの支えがなければ立ち直ることは難しいです。心の傷は一生涯残ります。

   私が倫理の講義で中絶や自殺の問題を取り上げるときの共通な視点があります。それは命を粗末にすることを避けたいと同時に、命を絶つような状況に追い込まれてしまった人間に対する心遣いです。中絶すべきでないと思いながら、したくないのに中絶をしなければならないような状況に追い込まれた女性は、胎児と共に自分も被害者です。自殺をするような状況に追い込まれてしまった人間も、その遺族も被害者です。その人々とともに痛みを感じる私たちの側から、その状況に対してできることがないのだろうかと次ぎのように問いかけられます。

自殺について

1)どのようにその社会的な原因をなくすことができるのでしょうか。

2)自殺をしようとしている人間をどう助けたらよいのでしょうか。

3)自殺したものの遺族をどう助けたらよいのでしょうか。

中絶について。 

1)中絶の社会的な原因をどうなくしたらよいのでしょうか

2)産むか産まないかを迷っている者をどう助けたらよいのでしょうか。

3)中絶が起きた後のいやしや心のケアのため何をすればよいのでしょうか。