生殖医療の問題点

 1997年2月24日、クローン羊ドリーが生まれた。その直後に、早速アメリカ合衆国クリントン大統領が、発言し、クローン技術が人間に応用されてしまうことに対して懸念を表明し、クローン研究に公費(連邦助成金)の使用を禁ずると宣言した。倫理問題に対する大統領の性急ともみえる熱い関心に対して、これは果たして本音なのかと首を傾げたジャーナリストは少なくなかった。
 2000年の八月二十三日、同じクリントン大統領は、ヒト胚の幹細胞の研究利用に青信号を出し、そのための連邦基金創設を決定した。どうも倫理上の問題に関する政治家の発言には一貫性を求めるのは無理のようである。
 それとは対照的に、教皇庁生命アカデミーは一貫した立場を示し、学問と信仰の観点からこれらの問題をとりあげて、人間の命を、その始まりから終わりまで守ろうとしてきている。クリントン発言の翌日の八月24日には、ヒト胚幹細胞の利用に関する注意を促したのである。

世界初めの試験管ベビー
 1978年イギリス生まれルイーズ・ブラウンは、精子卵子をそれぞれ取り出して、人為的に受精させ、卵子をまた子宮に戻す方法で生まれた世界初めてのいわゆる試験管ベビーだった。 
 彼女が10才になったとき、世界中ですでに10000人も〈試験管ベビー〉として生まれた人がいた。彼女が15才になったとき、さらに25000人になった。
 日本では、1983年に東北大学での初めての出産以来、98年末までの間、体外受精で合計44711人が生まれたと、日本産婦人科学会は発表している。同学会によると、この方法で一年間に生まれる子どもの数は10000人を超えているそうである。
 体外受精に関して、78年の時点では人々の反応が大きく二つに分かれていた。一方は「これは自然の摂理に反するのではないか」というもの、他方は「この技術は不妊症で悩んでいる人への朗報である」という両極端のものである。
 二十年以上たった今では、賛成者さえもそれほど楽観的ではなく、また反対者も自らの立場を再検討している。
 というのは、治療目的(therapeutic)で行われるものと、治療以外の目的(non-therapeutic)で行われる無責任な生命操作とは、区別する必要性があることがますます明らかになってきたからである。
 一般倫理の観点から言えば、不妊治療が認められるための条件は、安全性のほかに、
 1)配偶者間の関係を重要視すること、
 2)親と子の関係を大切にすることと、
 3)生まれてくるこどもの尊厳を傷つかないこと、
 の三点であり、これらは厳守されなければならない。
 こうしてみると、生殖補助医療における「自然主義」と「技術万能主義」という両極端を避けるため、不妊の治療というものと、治療の領域を超える無責任な操作とでもいうべきものを区別する必要があるだろう。
 ここでとりわけ注意しなくてはならないのは、生まれてくる子供のことが十分に考慮されているかどうかである。
 ひょっとすると、生まれてくる子どもも、その子を産む母親自身も、単なるモノ扱いにされてしまうことになりかねない。さらに、その子どもに対する社会の受け入れ方も考えなければならないだろう。それに、その子どもたちたちに生まれた方法を告げるか否かは、未解決の問題である。

科学者と司教たちの合同研究
 米国のカトリック司教中央協議会の「科学と人間的価値に関する委員会」の主催で、12人の専門の科学者と5人の司教が、三泊四日の研修会を行い、で「ヒト胚幹細胞」の諸問題に関して徹底的に研究した(アメリカ誌、1999年10月9日)。同研修会の結論はそうした技術を用いていわゆるクローン人間を作ることは安全性が問われるばかりでなく、倫理的にも認められるべきではないという点で意見が一致した。ところが、他の体細胞とは違って胚性幹細胞の取り扱いのほうが微妙な問題を含むということも強調された。そして、受精後の発生過程においてどの時点から厳密な意味で一人の人間に備わっている絶対的な権利が主張できるのかということについて議論が続いているので、慎重にその研究を見守る必要があることも確認された。
 幹細胞は繰り返し自己複製し、種々の組織を作り出すことができるそのため治療使用の可能性が期待されている。ヒト胚性幹細胞は体の全ての組織や期間に分化する能力を持つ培養細胞である。ES細胞と呼ばれるのは初期胚から分離されるものである。EG細胞と呼ばれるのは中絶胎児の卵巣から得られるものである。
 この点に関して教皇庁生命アカデミーの文書は興味がある。同アカデミーの声明によると「幹細胞の研究のためにヒトの受精卵を生産し、それを利用することは、非人道的で必要でもないことである」とし、「最近、成果も報告されている、大人の幹細胞を研究したり、それを治療上の目的のために用いてもさしつかえがないが、治療的クローニングという方法で複製した受精卵から、幹細胞を得ることを認めるべきではない」と断言している。

教会公文書の含み
 1987年に教皇庁教理省は、1987年の『生命のはじまりに関する教書』の中で、体外受精に関する否定的な意見を表し、教皇自身も1995年の回勅『いのちの福音』の中で、その見解を支持している。それはおそらく単なる不妊治療だけではなく、種々の無責任な生命操作を予想したうえでの判断であろう。
 このような見解をわきまえておくと同時に、正当な理由による例外を認めるための余地があることも、司牧者は理解する必要があると思う。
 教理省の前述の文書は、次のように述べている。
 「これらの人為的な介入に歯止めをかけるのは、決して人為的なものはいけないという理由によるものではない・・・それが人間の尊厳にかなっているかどうかという観点から、倫理上の評価がなされるべきである」(序文、3番、邦訳16ページ)。
 そして、微妙な意味合いを含む指摘をしている、「技術的な手段が、夫婦の営みを助けるかはまたはその自然な目的を助けるためのものであれば、倫理的に認められ・・・その方法が夫婦の営みを代替して行われるのならば、それは倫理的に認められない」。(同上、2,2,6,邦訳54ページ)。
これらの発言を手がかりにして相当な柔軟性をもって司牧の現場で具体的なケースの相談に応じることができるのではなかろうか。
 実際、不妊治療の目的で配偶者間の接合子を用いる、夫婦の愛の営みの延長として体外受精の方法でこどもをもうけた信徒のいくつかの事例を私自身も知っており、それに関する相談に応じたこともある。そのようなときには慎重さと同時に柔軟性が司牧者には求められる。