性と愛の人間学 (その2)

職員室で次の会話が聞こえました。
 A教員は言う、「うちの学校は性教育を取り入れるべきだ」。B教員が反論する、「いや、うちの学校にはそんなものはいらないよ。授業が週刊誌と間違えられると困るよ」。C教員は付け加える、「だけど、性が乱れているからしつけは必要だ」。
 この会話には、性教育に関する典型的な誤解が現れています。一つは、性教育を単なるハウ・ツー(how to)と捉えることです。つまり、生物学的なハウ・ツーの説明に快楽的なハウ・ツーをつけ加えるのが性教育だと思いこむことです。もう一つは、その逆の極端で、性に関する禁止事項をしつけることだけに終わってしまうことです。
 日本カトリック司教団の21世紀へのメッセージ『いのちへのまなざし』は、その両極端を避け、「社会問題としての性の倫理」を捉えています。人間は人格的存在で、「豊かでトータル(全的)な存在である」とし、この人間から、「〈性〉だけを分断し、たとえ合意にもとづいていたとしても、〈性〉をお金で交換可能な商品に卑しめること」への懸念を表し、「次世代を担う子供たちのためにも、あまりにも非人間的な今日の〈性〉の文化に対して創造的な挑戦をしていかなければならない」と訴えています。(25−26番)。
 性の問題にこだわりすぎるのはよくないですが、人がこれを気にするという事実も無視するわけにはいきません。性に関する悩みは年齢や身分を問わず生涯伴われるものだからです。そこで、相談室の現場からの例をあげましょう。
 青年Dは修道生活を志していましたが、決断に踏み切れないでいました。
 「私は確かに呼ばれてはいるという確信をもつようになったのですが、異性に強く引かれているので、どうも独身生活にむいていないのではないかという気もします。修道者を見ると感心はするのですが、やはり私は凡人で煩悩があるのですよ」。
 このように語るその人に、私は答えました。
 「煩悩がないのが条件だとしたら、だれもこの道に入れません。むしろ、人を愛することができないならば、この道には入らないほうがよいというべきです。そして、修道者らしい愛し方において成熟していくことが一生涯の課題となるでしょう」。
 もう一例は修道者Eのことです。この人は、忠実に誓願を守り、それに反する行為は一切していないのですが、性的な問題に悩んでおり、そのことで長上と相談しました。この修道者の性的な指向は異性に対してではなく、同性に向けられていたのです。相談を受けた長上は話を聞き始めたとたんに大会を勧めるようなことをほのめかしたと言います。Eは困って私のところに質問に来ました。
 「同性愛の傾向をもっているという理由だけで修道生活はあきらめるべきでしょうか」。
 私は答えました、「いいえ、そんなことないですよ。異性に引かれないということが決して入会の条件だということは決してありませんし、同性にひかれているということが大会の理由になるというようなこともありません。異性であろうと同性であろうと、ひかれるということがあるでしょうが、この道に呼ばれていれば、この道にふさわしい振る舞い方によって、自分がもっている〈愛する能力〉を方向付け、性的な存在として成熟していくように神の助けのもとで努めていけばよいのではないでしょうか」。

(つづく)