性と愛の人間学(つづき:その3)

 現代における性の現状をよく見つめている日本司教団文書『いのちへのまなざし』は、狭い「性の倫理」の捉え方を避け、広い視野に立って現代社会における人間関係のゆがみを告発しようとします。そのため、性の問題を、揺らぐ人間関係という枠組みの中で取り上げ、「切り離された性」(25−27番)と「性の本来の意味と力を取り戻すために」(28−31番)という二つの項目で扱っています。
 「その場限りの肉体的コミュニケーションを志向した不特定多数との性行為や、結婚における互いへの誠実を踏みにじる不倫行為が、テレビや映画、週間誌、コミック誌などによって無責任に奨励され、その商業主義によってさらに加速しています」(26番)・・・「性の交わりを通して、愛する喜び、愛される喜びを深く確かめ合うことのできる男女は、どんな厳しい人生の試練に直面しても、それをくぐり抜けていくことのできる勇気をくみ取ります」(28番)・・・「性に本来の意味と力を取り戻す為に、社会の現実に抵抗してでも、不断の心のこもったコミュニケーションを取り戻すことが先決です」(29番)と訴えているのです。
 司教団文書は、性の営みにおける「愛情」と「快楽」と「生殖」といった三つの側面のあいだにバランスをとろうとしてきたカトリックの伝統を受け継いで、「人間の全体の営みに関わる性」を正しく捉えることの必要性を強調します。そして、性をタブー視したり、罪悪視したりするようなことがないように注意を促すと同時に、快楽の面からだけ性を捉える消費主義社会の弱点も指摘しています。
 人によっていろいろな見方があるので、このような高い次元でのものさしでは足りないという人もいるかもしれず、また、古びた公共要理のようなきめ細かい禁止事項の目録を求めてしまう信徒もいるかもしれません。
 しかし、この点でも、このメッセージは、1984年に司教団が出した教書『生命、神のたまもの』と同じく一環した考え方で「倫理の物差し」を提供することに努めているのです。
 『生命、神のたまもの』では、「性の倫理に関するさまざまな問題に解答を与える前に」、理解すべき基本原則として次の三つがあげられていました。
 a) 性と愛において、自分自身を本当に大切にするには何をすればよいのか、という自己への忠実の原則。
 b)性と愛において、相手を本当に大切にするには何をすればよいのか、という他者への誠実の原則。
 c) 性と愛において、生まれてくる生命と、その生命が育てられる社会を本当に大切にするには何をすればよいのか、という社会への責任の原則。」(『生命、神のたまもの』20ページ)。
 このように、性の倫理に関して細かい禁止事項を述べるのではなく、問いかけとして、原則が示されていることが注目されます。
 『いのちへのまなざし』も似た調子で、「生殖から切り離された〈性〉を手放しで肯定し、生まれてくる子供たちに対する責任を無視した生き方が、人間のいのち、人生の真の充実になるかどうか」が真剣に問われていると指摘する(『いのちへのまなざし』27番)」と言います。
 さらに、性と家族計画についての誤解を避ける必要があるとして、次のように訴えます。
 聖書に基づいたカトリックの立場は、「『人間を男と女に創った』(創世記1.27)といわれるように、「性を、最初から神の祝福のもとに捉える」ものですが、「それは、性を生殖から切り離すものでも、また生殖との関連においてのみ評価するというものでもありませんでした」(28項)。
 したがって、「避妊を容認するメンタリティ」も、「子どもが多ければ多いほどよいといった姿勢」も、わたしたちは責任ある選択とは考えません・・・また、いのちの誕生は、神のみ心に属することであると同時に二人の男女の良心的な決断によるものですから、この分野で、政府など公的機関が、夫婦にゆだねるべき選択と決断に介入することは、さけるべきことだとわたしたちは訴えます」(同30項)。
 これらの点について、教会の現場で私は質問を受けることがありますが、どうも誤解が多いように思われます。避妊と中絶を同次元であるかのように受け止めてしまう信者もいれば、受胎調節に関する教会内の意見の相違を見て戸惑う人もいるのです。
 そこで、これらの問題に関する教会の教えの要点を七つにまとめておくことにします。その中の1から6までに関して言えば、教会内の意見の一致と倫理学者の主流の合意があって、急進的な人であれ、保守的な人であれ、この六つの点を一致して認めていますが、7番目の点についてだけはカトリック倫理学者のあいだ賛否両論の余地があると言えましょう。
 1.「性」はよいものであり、生殖のためだけではなく、夫婦の一致と愛情を表現し、それを養うものです(『現代世界憲章』49項参照)。
 2.子どもは親の愛の実りとして生まれるべきです(教理省『生命のはじまりに関する教書』 2章,1;教皇パウロ・6世の回章『フマネ・ヴィテ』 8項; 教皇ヨハネ・パウロ2世回章『いのちの福音』 23項参照)。
 3.子どもを産むことは責任をもって行い、「主義(メンタリティ)としての避妊一辺倒」と「子供が多ければ多い程よい」という両極端の態度を避けるべきです(『フマネ・ヴイテ』18項; 『命の福男印』 97項参照)。
 4. 子供を何人産むか、またどの間隔で産むのかを決めるのは、(政府などではなく)親です(教皇ヨハネ・パウロ2世使徒的勧告『家庭』第三部;『家庭憲章』、1983参照;『いのちの福音』 91項参照)。
 5. この選択を行うに当たって、家庭状況、すでに産まれている子供の教育、夫婦の間柄と絆を強めること、経済状況、人口問題などを念頭に置いておかなければならないのです。(『家庭憲章』3;『生命のはじまりに関する教書』,序文、3)。
 6.何らかの形で受胎の調節を行わなければならないでしょうが、その時の基準はエゴイズムではなく、正しい価値観に基づくものであり、調節の方法として中絶を選ぶべきではありません。(『フマネ・ヴイテ』 18項; 『いのちの福音』 91項)。
 なお、避妊と中絶は明らかに別な次元のものであり、同一視されるべきではありません。教会は、避妊に対して否定的な意見を表したことgはあるのですが、避妊と中絶がそれぞれ別な次元の問題であることを明記しています(『いのちの福音』13項)。教会では避妊を拒否するのは、夫婦愛の本来の在り方をゆがめるかぎりにおいてです。
 7. 具体的にさまざまな受胎調節の方法を識別するとき、教会は慎重にできるだけもっとも自然なやり方に合うような方法を学ぶように勧めきました。
 以上の、1から6までは、教会内での意見の一致とカトリック倫理学者の主流における合意があり、急進的な人であれ保守的な人であれ、共通に認めていることですが、7晩目の点だけは、カトリック倫理学者のあいだに賛否両論があり、教会内でも誤解の多いところです。
 そこで、日本司教団は、司牧の場において柔軟な対応の余地を残す慎重な表現にとどめながら、カトリック教会が、自然的な方法を勧めていることについて、「それは、女性の健康や相手の身体的状況を気遣う中で、夫と妻相互の尊敬と愛情が深められ、そして、自然を司る神のみ心によって、ふさわしい時期に、子どもに恵まれるようにという思いからです」と説明し、「その意向に反する人工妊娠中絶はもちろんのこと、自分たちの幸せのみを追求する自己中心的な判断は避けるべきだと考えます」(『いのちへのまなざし』31項)という程度のことを述べることに留めております。
 なお、司僕の現場にいる者の立場から発言させていただければ、もっと思い切ったことを言わなければならないと確信しておりります。
 つまり、:
ー中絶の問題を避けるためには、避妊をつかってもよいだけではなく、つかうべきだとさえ言うわなければなりません。
ー避妊は罪の問題でもなければ、教義の問題でも、教会の指針に従う問題でもないのです。
ーこのことに関して教会は余計な発言をすることによってここ60年間だいぶ信憑性をうしなったのは残念なことです。
ー大人らしい信仰の持ち方と正しい性教育は中学生のころからはじまって必要だと思っております。

(続く)