Epiphany (,ご公言の主日 

 東の方から知恵のある旅人たちがイエスを拝みにくるという話しをとおしてマタイ福音史家がエフェソ書の著者と同じことを伝えようとしております。つまり、外国人(異邦人)がユダヤ人たちと同じ共同体に所属し、同じ約束に与り、同じ伝統を受け継ぐことができるということです。
エスがもたらした信仰の持ち方は国家宗教でもなければ、排他的なものでもありません。しかし歴史を振り返れば、教会は国家権力から利用されたときもあれば、国家権力を利用したときもあります。
 現在の教会もこの福音によって問いかけられています。 わたしたちは本当にどの権力にでも縛られていない教会なのでしょうか。本当に心の自由をもっているのでしょうか。本当に排他的な態度を捨てているのでしょうか。
 今日の福音書で読まれる物語をとおして私たち現代の教会はショックを受け、当惑させられます。この福音は世間の常識を覆し、私たちが頼りがちな宗教の在り方や信仰の持ち方に動揺させます。
 たとえば、次のポイントを考えましょう。
 1)誰に星が現れるのか。神殿の祭司たちにではなく、遠くから来る外国人に現われます。内のものにではなく、よそのものに現れるのです。
 2)その星はどこで見え、どこで隠れるのか。都エルサレムで見えなくなって、田舎ベトレヘムにあらわれます。
 3)イザヤが予言したように「国々が富・金・香を持ってエルサレムにくる」のではなく、エルサレムから出て田舎の貧しいところに旅人たちが拝みに行くのです。
 4) 昔から言われたように「エルサレムに星が輝く」のではなく、エルサレムにおいてこそ星が見えなくなる。
 5) 「幼子ははあマリアとともにおられた」と言っているのですが、母親に言及せずに、父親だけに言及するのはふつうでしたが、マタイはマリアを浮彫りにし、ヨセフのことを影にのこします。
 6)ユダヤ人の王と呼ばれるイエス様は王らしくない王であり、世の権力者たちとは違います。
 7)旅人たちは別な道で帰ります。エルサレムに戻らないで、ヘロデ王と妥協せずに彼らは帰るのです。
確かにマタイ福音史家は型破りのイエスの姿を示しています。そういったイエスによって現代の教会が問いかけられています。コ