はじめに言葉がいた

クリスマスの日中のミサに朗読される福音はヨハネ1章です。次の点に留意しておきましょう。

「わたしたち」から「あなたがた」ヘ

ョハネ福音書の次の4つの語はキーワードです。そのふたつは初めの方に、他のふたつは最後に出てきます。まず初めの方は1・14で、そこに「わたしたち」という語が二回ほど出てきます。「わたしたちの問に住まわれた」。「わたしたちはその栄光を見た」。同じく最後の21・24に「わたしたち」という語が出てきます。「この弟子があかしとして書いたこれらのことが確かなあかしであることを、わたしたち(つまり信仰者の共同体)は知っている」と言っています。

 それから20・31に、「これらのことは、あなたがたがイエズスはキリストであることを信じるようになるために書かれた」と書いてありますが、「あなたがた」という語に注目しましょう。
 
このように福音書の初めの方と終わりの方に、「わたしたち」と「あなたがた」という二つの重要な言葉が出てきます。福音書はいわば「わたしたち」から「あなたがた」へ、複数の第一人称から複数の第二人称に宛てられて書かれたものです。
 
福音書は決して一人の記者から一人の読者だけに向かって書かれたものではなく、共同体つまり信仰者の共同体、言いかえればキリストの伝統を受け継ぐ信仰者の共同体に向かって、その共同体の中に身を置いている福音記者が書いたものです。さらに福音書を伝播するのも信仰者の共同体であり、現在、その福音書を受け継いでいるのもわたしたちという共同体です。福音書を個人的に「わたし」と「神」との間のものとして読むと、その重要なことが見失われてしまいます。福音書は孤立した記者が孤立した読者へ宛てたものではなく、キリスト者の共同体がその信仰体験のあかしとして「わたしたち」に宛てて書いたものであるということをよく理解したいものです。

  創造及び光と闇
 
ではまず、この福音書の前書きである第一章の初めの部分1・1〜18節を読んでみましょう。この部分ではおもに三つのヒントが与えられています。その第一は創造であり、第二はいのちと光、第三は光と闇です。
 まず創造について考えてみましょう。ヨハネ福音書の前書きはわたしたちを広い視野に立たせ、わたしたちのものの見方を広くしてくれます。「初めに御言葉があった」。言いかえると、「初めに神の長期計画があった」とでも言えましょう。それは神が人間になるという計画であり、その計画が実現したのは、イエスが人となった時です。イエスは神の言葉であり神の計画の生きた実現です。このようにヨハネは最初からわたしたちが人類史の全体を広いビジョンのもとにとらえるように導きます。日々の心配ごとや余計な悩みごとに気を取られがちなわたしたちに、その狭さを乗り越えるように最初からすすめております。

 さらにヨハネは、「この御言葉にいのちがあった。そしてこのいのちは人の光であった」と言います。光がいのちをもたらすのではなく、反対にいのちが光をもたらすのです。旧約時代では律法が光にたとえられていました。頭で律法を知り、それを守っても、その光にはいのちが欠けています。キリストを知り、キリストがもたらす新しい生き方と真の自由を与えられて初めて、人は光つまり新しいものの見方を得るのです。光がいのちをもたらすのではなく、いのちこそ自由と光をもたらすのです。キリストが与えるいのちが、人を真に自由にし、世界を新しい自で見る能力を人に与えるからです。このようにすでに前書きから、ヨハネ福音書はわたしたちの考え方をくつがえすわけです。
 
光と闇の戦いが最初から現われてきます。闇と罪と悪のなぞが現われますが、それらがいのちに打ち勝つことはありません。ヨハネ福音書のメッセージは、闇と罪と悪の力がはびこっているにもかかわらず、それらが最終的に打ち破られ、希望が勝つということです。それは、前述の神の計画があるからです。「初めに御言葉があった」。言いかえれば、初めに神の長期計画があり、希望があったのです。そして最後に、その希望が完全に実現することになっています。
 
こうした神からの希望と、いのちが人の世に現われたとき、それを受け入れる準備が最もよくできていたはずの人々がかれを受け入れませんでした。しかし受け入れた人もいました。たとえば、イエスの母マリアやこの第1章に出てくるナタナエルなどがそうです。この人々は旧約時代の人物ですが、イエスを受け入れたイスラエルを表わしています。ヨハネは彼らが神の子となる能力を授けられたと言っています(1・12)。それは真の人間になる恵みを与えられたということです。つまり、神の子となることは、決して人間らしくなくなることではなく、より人間らしくなることだからです。人間らしさの実現こそ、神の計画なのです。すなわち神は人々にご自分の霊を与えることによって人々がその人間らしさを実現するに至り、神の子となることを望んでおられるのです。

☆☆☆

  以上三つのヒントのみ提示しましたが、ヨハネのこの第一章について付言しうることはいくらでもあります。ただここで意図しているのは、こまかな解釈ではなく、あくまでも全体的考察ですから、この程度にとどめておきます。今はその中心点にのみ注目するようにしましょう。人となった神の言葉、神の計画を受け入れようとしているわたしたちが、ヨハネが言っているように、神の栄光を見た共同体なのです。換言すればそれは十字架につけられたかたを見て、そのかたこそ人間らしさの実現であると同時に神の計画の実現であることを信仰の目で認める共同体です。
 
ピラトは傷ついたイエズスを群衆に示しながら、一九章で「この人を見よ」と言います。わたしたちはその、イエズスの姿を見て、まさに人を見ます。つまり、人として真の人間らしさを実現する者であると同時に、真の神であるイエスの姿を見るのです。わたしたちはヨハネの属していた共同体と同じく、このかたこそ真の人間であると同時に真の神であることを信じて、その信仰を表現するこのヨハネ福音書を今も読み続け、伝え続けているのです。