すべての赤ちゃんは聖霊〔神の息吹)によって生かされて生まれる

   ルカ福音書1,26と1,36(お告げの場面)において「六ヶ月目に」ということばが繰り返されます。それは「枕詞」みたいなものです。その後で、妊娠六ヶ月目のエリサベトを訪問するマリアの「訪問の場面が描かれております。

   この二人の女性の妊娠は象徴的に福音書の中で重要な位置をしめております。

   ご存知のように、ルカ福音史家が描いたのは歴史的な記録でも生物学的・生理学的な意味での妊娠と降誕の話しでもありません。

   ルカは象徴的にして文学的・詩的な表現を使って信仰を表す物語りを創作します。ルカは物語を通して信仰を表し、イエスとはだれかということを伝えようとします。

   この話しの中で妊娠している二人の女性が出てきます。エリサベトとマリアです。エルイサベトは六ヶ月目の妊娠です。マリアは妊娠したばかりです。エリサベトは妊娠するには歳をとりすぎています。マリアは妊娠するには若すぎるぐらいかもしれません。両者とも心配するでしょう。児玉にめぐまれるのはさいわいですが、分娩のとき大丈夫かなとエリサベトは心配するでしょう。そして未婚のままで妊娠したマリアは周りから変な目で見られてヨセフからどのように受け入れてもらうか、これもまた心配のもとです。

   この二人の女性は、どの妊娠にも伴なう不安と希望、望みと心配をもっております。自分の腹を痛めてお子さんを産んだお母さんたちならよくわかるでしょう。赤ちゃんを迎えたい親、これからどのように育てていくかを心配する親...これこそ不安と希望です。

   身使いガブリエルの言葉は励ましと力づけです。マリアは安心します。「神の力はあなたをささえるから大丈夫です。神の影はあなたを包みます」と言うのです。

   その言葉にはげまされてマリアは言います。「お言葉の通りこの身になりますように」と。

   マリアのこの返事には二つの大切なこと言がわれているので、それに留意しましょう。
 
   まず一つは、「お言葉の通りに」という言葉です。それから、もうひとつは「この身になりますように」という言葉です。

   『お言葉の通り』というと、ガブリエルが言った言葉の通りです。つまり、「いと高き方の力があなたをつつむ」、言い換えれば、「いと高き方の影があなたを包むから、あなたの身に起こることはまさに『お蔭様』です」。
  
    身ごもるということは、お蔭様で実現される出来事で、神様の力、聖霊すなわち神の息吹の力が働いて初めて起こることです。それと同時に、身ごもるということは、「この身に」「マリアの身に」、「エリサベトの身に」、「すべての母親たちの身に」起こることです。

    このように、身ごもって子供を産むということは親の営みであると同時に神様の力、聖霊の息吹によってお影様で起こることです。親が子供を作ると言えますが、子供を授かるとも言えます。親が作った子供は授かった子供です。正確に言えば、親が子供を造るというとき、創造の「造」と言う漢字で書いた方がよいでしょう。 作品の「作」よりも、創造の「造」という字で書いた方が相応しいと思います。なぜかと言えば、どの子供でも親から生まれると同時に聖霊によって生まれるとも言えるのです。

    この意味でイエスの誕生に照らしてすべての誕生に起こる不思議な神秘が解き明かされます。

    このことを福音から学び、生まれる命の重みを私たちは忘れたくないないでしょう。生まれてくるすべての赤ちゃんが望まれて生まれ、迎えられて生まれることができるように祈りたいものです。