「分かち合い」と「人間解放」なしにはミサはありえない。

   教箇条書き、09年6月14日、キリストの生体
  
 今日は,ミサの意味をあらためて思い起こし、徒伝2,46−47で表されている教会の三つの使命を思い出しましょう。感謝の祭儀の次の三点です。 イ)日曜日ごとに集うキリスト者は、神から与えられている希望をもって歌います。ロ)司式者が「これは、私の体である」というのですが、「これ」という言葉では、パンと盃によって表される私たちの日常生活のすべてが含まれており、それこそキリストの体となります。ミサは、日常生活の中での信仰の実践と、社会の中での分かち合いがあってのミサでなければ、賛美歌だけに逃避することにもなりかねないのです。ハ)キリストを囲んで集まる信仰者たちは、信仰宣言を唱え、自分たちの希望を表します。

 このように感謝の祭儀(Eucharistia)には、イ)信仰を祝うこと(Celebration)、ロ)信仰を社会の中で実践すること(Praxis)、ハ)信仰を告げ知らせること(Proclamation)が互いに結びついています。

 使徒伝に「毎日、心を一つにして神殿に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美する」共同体の姿が描かれています。その共同体は、
 イ)歌う共同体であり、
 ロ)社会の中で新しい分かち合いと型破りの人間関係を目指し、一つになろうとしている共同であり、
 ハ)福音を告げ知らせる信仰者の集いです。

 現代社会に生きるキリスト者の生き方の根幹は、
 イ)明るい信仰を持ち、
 ロ)社会問題に関わり(「わかちあい」、「人間解放」、「人権尊重」、「平和運動」など)、
 ハ)福音宣教にたずさわる、という三点です。
 ミサにはその三点が収斂します。

 ミサとは、キリスト者が祝う感謝の祭儀です。教会ははじめのこころには、キリスト者が家々に集まり、イエスの思い出とその教えを語り合い、パンと盃を分かち合うたびに、主イエスの死を思い、イエスが今尚生きていることを告げ知らせていました。その伝統を受け継ぐ現代のキリスト者の信仰生活の中心はミサです。

 教会は「歌う人々の共同体」だと言われますが、賛美歌だけに逃避する甘美な信仰の持ち方ではこまります。「歌う教会」は、この世の旅を歩みながら、かなたからの声に耳を傾けようとしている共同体であり、生活を分かち合い(愛)、共に悦び(希望)、祈る(信仰)人々の集いになろうとしております。

 ミサの中でキリスト者がいっしょに祈り、いっしょに聖書の言葉を聞き、一緒に日常生活のすべてを表すパンと盃をささげて、キリストの食卓にあずかります。

 ミサは形式にこだわる儀式になってはいけません。
 ミサは司祭を囲んで行われるのではなく、キリストの食卓を囲んで行われるものです。わたしたちは、ミサに受身の形であずからず、ミサをつくりながら参加するのです。
 ミサの前と後でミサに集う人々の親睦がなければ、そのミサは未完成です。
 ミサには、入祭と閉祭の所があっても、始も終りもありません。ミサは「...」ではじまって、「...」で終わりますが、日常生活のすべてが、ミサの前触れと続き出でなければそのミサは無意味になるのです。
 ミサは決してこの世を忘れてあの世を考えるためではありません。
 ミサは個人主義的な祈りでもありません。

 「分かち合い」と「人間解放への関わり方」が欠落している教会は教会とも言えなければ、その教会で行われるミサも無意味です。