「父と子と聖霊」は, 多神教ではない

六甲教会説教箇条書き。6月7日。父と子と聖霊主日

 カトリック教会の祈りのはじめに、十字架を切るしるしをしながら、「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」と唱えます。そして祈りの終りに、「栄光は父と子と聖霊に。初めのように今もいつも世々に。アーメン」と言います。

 この短い文はキリスト教信仰の要約と言えます。

 「父と子と聖霊」というこの三つの言葉は、三つの頭の神様を指すのではありません。この三つの言葉は、三者ではなく、唯一の神を指すのです。
しかしその三つの言葉は単なる異なった名前だけではないのです。

 父なる神、御子と呼ばれるイエスと、神の息吹と力と呼ばれる聖霊は、どのようにわたしたちが神にめぐりあうのか、またどのように神がわたしたちに働きかけるかを表している言葉です。

 いのちの源であり、創造主である神は、父なる神と呼ばれます。

 父なる神を見た者はいないが、その顔を具体的に示してくださったのは人となられた神様自身であり、御子と呼ばれるイエスです。わたしたちはイエスのことをイエス・キリストよ呼びます。それは「イエスこそキリスト・すなわち救い主・人となられた神であり、わたしたちの希望の根拠である」という意味です。

 そして、すべてのものにおいても、わたしたち一人ひとりの心の中においても現存し、はたきかけている神の霊は聖霊と呼ばれます。

 西洋のキリスト教の歴史の中でこの教えは難しそうな言葉遣いで語られるようになり、「三位一体」という理解しにくい定式で表現されるようになりました。キリスト教を知らない人でも日本で「三位一体」という言葉を比喩的に使うことがあり、ある政治家は「三位一体の改革」という言葉を用いたので、一時流行する言葉となったことさえあります。

 わたしは「三位一体」ということを信仰の表現としてあまり使いたくありません。むしろ原始キリスト教団で神を賛美するために言われていたように、「栄光は、聖霊において、キリストを通して父なる神に帰せられるように」という讃歌を紹介したほうが良いと思います。

 そしてなんと言っても信仰の対象は神についての難しい教理ではなく、神自身です。教理は、例えて言えば、文法のようなものです。文法を知らなくてもわたしたちは文法にのっとって話しているのです。

 では、今日の典礼は「父と子と聖霊である唯一の神」への信仰を宣言する主日になっております。その主日を祝うにあたってイエスの教えてくださった祈り(主の祈り)を父なる神に向かって唱えたいのですが、その祈りを唱えるとき、それを心から唱えさせてくださっているのは神自身の霊であるということに改めて気づきたいものです。