聖霊は自由

   六甲教会説教の箇条書き。聖霊降臨、2009年

 イエス様は特別な挨拶の仕方をされていました。今日はイエスが神戸に現われて人に挨拶したら叱られるでしょう。その挨拶は人に息を吹きかけるのです。そんなことをされたら、「インフルエンザ対策で息を吹きかけてはいけない」、「マスクをかけてください」と注意されそうです。イエスは、息吹をふきかけるというしぐさを通して大切なことを弟子たち印象づけています。神の霊、神の息吹、神様の力があなた方の上に下りますように、人を生かし、人を力づける神様の霊を受けてくださいということです。

 聖書の表現で言えば、聖霊です。今日私たちは聖霊降臨を祝います。聖霊使徒たちの上に下って教会の生活が始まり、福音を広める運動が出発しました。信仰を宣言するとき、「聖霊を信じる」と言います。聖霊を信じるというのは、聖霊によって神を信じるということです。

 聖書では、聖霊のこと、神様の霊のことは風や空気、海の波にも、燃える火にも例えられます。聖霊は空気。空気がなければ、呼吸できません。私たちは神の霊という空気の中に包まれています。信じるとはその空気のうちに呼吸することです。信仰は心の呼吸です。聖霊は海。海の中を泳いでいる魚にとって海はいのちであり、生きる場です。海の外へ出れば死んでしまいます。私たちは神様のうち、神様の場に生き、呼吸し、存在しているのです。聖霊は燃える火でもあります。燃えることのよって光と温かみをもたらします。私たちは聖霊の光に導かれ、その温かみに力づけられて生きていきます。聖書のこのような美しい表現で聖霊のことが語られており、先ほど謳った聖霊の歌はそれをみごとに拾い集めました。

 ところで、この聖霊の話しを綺麗ごとに終わらせないようにしましょう。聖霊に促されて生きるものは聖霊に導かれて前進する、つまり、束縛なしに誠の自由を持って先へ進んでいくということです。(ガラテヤ5,25)。別なところで、「聖霊が居るところにこそ、自由がある」とパウロは言っています(2コリント3,17)。

 この言葉によってといかけられる私たちは聖霊の空気をすっているのでしょうかそれとも世間の空気を吸っているのでしょうか。私たちは聖霊のうちに呼吸して自由になっているのでしょうかそれとも社会を支配する世論・世間体の空気によって束縛されているのでしょうか。

 会議に出たとしましょう。批判的な意見を述べたいと感じていながら、周りの「空気を読んで」黙ってしまいます。周りからどのように見られているかを気にしすぎる社会...、世間様にもうしわけないと言って世論に芝rふぃ付けられる社会...、世間体を神様のかわりに絶対的なものにしがちな社会...、その社会の中でくらしている私たち...、周りの目、世間、世論政治やマスコミの操作によって洗脳される私たちは、いったい聖霊の空気を一杯吸って自由に慣れるでしょうか。世間にこだわることなく、聖霊の空気の中で自由に呼吸できるでしょうか。

 聖霊の海の中で泳ぐように、聖霊に力づけられた教会の中も本音を話し、たがいに聖霊の自由をまたらされているのでしょうか。そうなるようにいのりたいです。