12歳の大人と50歳の子ども (マルコ5、21-43)

福音書講座ノート3

現代社会に響きあうイエスの福音ー聖書の読み方にもとづいた信仰と社会への視点― 

 聖書をはじめて読む方は、奇跡物語などに戸惑うことがある。よみがえりなどの話が出ると、そうである。しかし、字面通りの読み方にこだわらずに、ちょっと視点を変えて、この奇跡物語のなかに含まれている比喩的なところに目を傾けると、随分示唆に富んだところがある。その一例は「マルコ福音書」のなかのヤイロという人の娘の話である。(マルコ5、21−43参照)。
 「娘さんは死んだのではなく、眠っている」と言ったので、イエスは笑われたけれども、もしこの話はよみがえりの話というよりも成長に関する象徴的な話として読めばピンときやすいのではないかと思う。
 親は子どもを過保護的にかわいがり、「熱があるから家にいなさい。あまり食べないように、毛布を沢山かけて・・・」と子どもに手をかけすぎて、子どもの生きる力を窒息させてしまっていることがないだろうか。イエスは良いお医者さんであった。「さあ、窓を開け、良い空気を吸って、もりもり食べなさい」と言われる。
 実はこう解釈する根拠もある。この物語の中で含まれているもう1つの物語(マルコ5,24-34〕を参考にしよう。その話しの中で意味ありげな言葉がある。あの女性の病気は十二年間続いた。しかし本当に病気だったのだろうか。それとも周りからそうさせられたのだろうか。当時の社会では出血(生理)は穢れと見なされていて、その人も皆の前に出るのを恥ずかしがっていた。その人に向かってイエスが言った言葉は次のように置き換えることができる。
 「あなたを癒す力は、あなた自身のなかにあります。あなたが必要としているのは医者ではなく、あなたは病気ではないと言ってもらうことです。」
 そして十二年間の幼稚な心配をのり越えて、大人になる自分自身を与えられた。
ところで、ヤイロのむすめは「十二歳にもなっていたのである」。当時十二歳といえば大人になりかける年頃で、早婚の当時では婚約できる年齢であった。イエスは両親に厳しく命じて「少女に食べ物を与えるように」と言われた。
 十二という数字は、この二つの物語の中で基調になっている言葉である。
 親であれ、周りの人々であれ、人の成長が周りから妨げられることがよくある。そこで今まで自分を見守ってきていたものから一旦離れる勇気を出して、はじめて人は自立するということができるのである。