昇天の主日・『白と闇』・インフルエンザ騒ぎ

この前、復活徹夜際を祝い、私たちは復活の蝋燭を点しました。「キリストの光り」をあらわす蝋燭です。そして今日の昇天の主日まで、ミサの間この蝋燭を点してきました。今日は、イエスと弟たちのお別れを思い出して復活の蝋燭を消します。しかし、イエスが居なくなったわけではありません。ご存知のように、イエスが昇天したというのは、今尚生きておられるイエスが、肉眼では見えないけれども、私たちと共おられるということです。私たちは、イエスが引き起こした運動を世の中でひろげていくために使わされております。この教えは聖書でいろいろな言葉であらわされています。

「天にのぼられた」というような比ゆ的な表現もあれば、「世の終りまであなた方と共に、あなた方の傍におられる」という言葉もあります。そしてもっと深い意味を持つ表現はエペソ書の朗読で聞いた言葉です。「すべてのものを満たすため」・「すべてのものを通して働き、すべてのもののうちにおられる」というのです。

生前のイエスについて「どこにおられるのかと聞かれたばあい「ここだ」「あそこだ」とか言えたのですが、今、昇天したイエスはどこにおられるのかと聞かれたら、指で指すことができる「ここ」や「あそこ」ではなく、どこにでもおられるわけです。イエスの光りに照らされて世の中を見ることができたら、どこを見てもどこにでもイエスがおられるということに気づくことができます。私たちは今日イエスの昇天を祝うに当たってこう祈りたいです。どうかイエスの光りに照らされて世界を見ることが出来ますように。

光りと言えばイエスの言葉を思い出します。「私はこの世に来たのは、目の見えない人が見えるようになり、目が見えるつもりでいるのに見えない人は自分の失明に気づくためだ」とヨハネ福音書で言っています。

最近この言葉を思い出して考えさせられます。現代は大変な政治と経済危機に直面している世の中です。しかしその問題が見えないようにするためにこの世の権力者にとって都合のいい煙幕(煙の層)が張られることがあります。インフルエンザ騒ぎはそのひとつの典型的な一例に思われてなりません。

1998年にノーベル文学賞を受賞したポルトガルの作家ホセ・サラマゴは「白の闇」と言う小説を書きました。ある人が突然、町の交差点で失明します。視界が真っ白になる病気。原因不明のまま、伝染病のように感染は広がっていきます。政府はかつての精神病院を収容所にして患者の隔離を始めます。そこでは、秩序が崩壊し、人間の本性がむきだしになってゆきます。大変な社会状況になります。やがてその国のほとんどの人が感染して失明します。この趣旨の小説ですが、著者はその本のはじめに訓戒の書を引用します。「見えるなら、よく見よ、よく見えるなら、じっと見よ」という言葉です。著者自身が次ぎのように語っています。「人間が理性の使い方を見失ったとき、たがいに持つべき尊重の念を失ったとき、何が起こるかを見たのだ。それはこの世界が実際にあじわっている悲劇なのだ」と。

私は今週インフルエンザさわぎにまどわされている状況を不思議に思いながらこのサラマゴの小説を読み返しました。そしてヨハネ福音書の言葉をあらためてかみしめました。「見えない人が見えるようになり、見えないのに見えるつもりで居る人々にめざめさせる」と風に人々にめざめさせるイエスの光りから刺激を受けたいです。そして世論の操作に惑わされることなく覚めた目で現代社会の歪みをみつめたいと思います。